宝鏡か神鏡か、神剣か宝剣か
2017.06.14
“宝鏡” それとも“神鏡”?
同じく “神剣” それとも“宝剣”?

いわずと知れた「三種の神器」のお話で補足です。
『日本書紀』に記される「八咫の鏡」(やたの かがみ)と「草薙の剣」(くさなぎの つるぎ)の尊称についてです。

もう一つの「八尺瓊の勾玉」(やさかにの まがたま)がありますが、史実は、7~8世紀になって「三種の神器」に付加されたものなので、神話(いわれのある作り話)の「神代」紀、しかも“一書”(あるいはいう)にしか記されていません。
要は、史実としての根拠がないのです。

それはともかく、現在(8世紀以降)は「三種の神器」になったのは間違いないので、これは“瑞珠”「八尺瓊の勾玉」と呼ぶのが適切です。

では「八咫の鏡」は、“宝鏡”と呼ぶべきでしょうか、それとも“神鏡”でしょうか。
また「草薙の剣」は、“神剣”と呼ぶべきでしょうか、それとも“宝剣”でしょうか。

どちらでもいいのですが、“もの”を書く以上、一応は厳密に規定しておかなければなりません。

ネットでは、一つのサイトの中で「宝鏡と神鏡」「神剣と宝剣」を並行してもちいるなど案外とテキトーに書いているケースもみられます。
こういうときは「三種の神器」のいわれである『日本書紀』に戻るしかありません。

ただ『日本書紀』でも、「宝鏡」と「神鏡」、「神剣」と「宝剣」と、それぞれ1か所ずつ出てきます。
ですが「八咫の鏡」と「草薙の剣」をさすのはどちらかといえば、やはり天照大神を由来とする「八咫の鏡」は“宝鏡”で、素戔嗚尊を由来とする「草薙の剣」は“神剣”です。

一方、「神鏡」や「宝剣」も『日本書紀』に出てきますが、それらは「三種の神器」を指しているとはいえません。

以下、ご参考に原文とともに掲載箇所をピックアップしておきます。


「宝鏡」
●『日本書紀』「神代」(下)より抜粋
このときに、天照大神は手に宝鏡を持って、天忍穂耳尊に授けて言うに…(以下略)
《原文》
是時、天照大神、手持寶鏡、授天忍穗耳尊而祝之曰…(以下略)

「神鏡」
●『日本書紀』「雄略天皇」紀より抜粋
皇女はきゅうに神鏡をもちだして(中略)、鏡を埋め首をくくって死なれた。
《原文》
俄而皇女、齎持神鏡(中略)、埋鏡經死。


「神剣」
●『日本書紀』「神代」(上)より抜粋
素戔嗚尊が言われるのに、「これは不思議な剣である」、私はどうして私物にできようか。
※講談社学術文庫『日本書紀』の訳より。
《原文》
素戔嗚尊曰「是神劒也、吾何敢私以安乎」

「宝剣」
●『日本書紀』「天智天皇」紀より抜粋
播磨国司岸田臣麻呂らが、宝剣を献上して言うに、「狭夜郡の人の栗畑の穴の中から出ました」。
《原文》
播磨國司岸田臣麻呂等、獻寶劒言、於狹夜郡人禾田穴內獲焉。

以上のように、「宝鏡」と「神剣」が正しいのです。


※『日本書紀』の編者がちゃんと言葉を使い分けていることにご注目ください。
なので「中大兄」としか書いていないものを「中大兄皇子」とするのは誤解をうみます。
そこには深い秘密がありますのでご興味がある方は別記事をご参照ください。




「三種の神器」のルーツ 4
2017.06.05
「三種の神器」のうち、最後は「八尺瓊の勾玉」のルーツについてです。

繰り返しになりますが、単なる「鏡」「剣」「勾玉」をもって三種の神器とはいいません。
あくまでも、固有の宝鏡「八咫の鏡」、同じく神剣「草薙の剣」、そして固有の瑞珠「八尺瓊の勾玉」をもって「三種の神器」といいます。

なぜなら、どこにでもある「鏡」「剣」「勾玉」をもって三種の神器とするなら、だれもが「天皇」を名乗れます。
そうではなく、「三種の神器」は、それぞれが各地の王国を象徴しているゆえに、統一大和を治める「天皇」がもつ“みしるし”になっています。

「八咫の鏡」と「草薙の剣」は、『日本書紀』の「神代」紀に由緒が記されています。

「八咫の鏡」は、天の岩戸隠れに際してつくられた「鏡」で、“高天原”こと九州連合「倭国」の王権を象徴します。
「草薙の剣」(天の叢雲の剣)は、“八岐大蛇”を退治した地「出雲」を盟主とする、箸墓古墳でもさわがれる本州「大国主連合」の王権を象徴します。

なので、この2つの神器をもつことは、尾張国以西を治める“天皇”(大王)の“みしるし”となります。

そこに、統一大和の時代、7~8世紀に「八尺瓊の勾玉」が三種の神器に加わります。
それまで(持統天皇まで)「二種の神器」をもって天皇は即位してきました。

それは、『日本書紀』に記されているとおりです。
「三種の神器」が記されているのは神話(神代)のみで、しかも一書に記された「天孫降臨」神話の箇所のみです。
その後の人代の「天皇」の即位に際しては、「二種の神器」しか記されていません。
それが歴史的事実だからです。

では、7~8世紀になってくわわった「八尺瓊の勾玉」は、どの地域の王権を象徴するのでしょうか。
『日本書紀』には次のように記されています。

第10代「崇神天皇」の皇子「垂仁天皇」紀の記載です。

●『日本書紀』「垂仁天皇」紀より抜粋

むかし丹波国の桑田村に名を甕襲(みかそ)という人がいた。
甕襲の家に犬がいた。名を足往(あゆき)という。
この犬は山の獣むじなを食い殺した。
獣の腹に八尺瓊の勾玉があった。これを献上した。
この宝は今、石上神宮(いそのかみ じんぐう)にある。

《原文》
昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。
則甕襲家有犬、名曰足往。
是犬、咋山獸名牟士那而殺之、
則獸腹有八尺瓊勾玉。因以獻之。
是玉今有石上神宮也。

古代、一般の「勾玉」は、現在の新潟県の糸魚川産のヒスイが最高級で、糸魚川はもちろん北海道や青森など主に北日本で、はるか5,000年前の縄文時代から勾玉に加工されていて、九州まで全国に交易されています。

それゆえ、「勾玉」自体は、基本的に北陸をふくめた関東以北の国の支配権を象徴します。

つまり、九州倭国の支配権を象徴する「八咫の鏡」、尾張国をはじめ近畿以西の本州国の支配権を象徴する「草薙の剣」、これに北陸や北日本の支配権を象徴する「八尺瓊の勾玉」が加わって、7~8世紀以降、統一大和の「天皇」の象徴「三種の神器」となるわけです。

では、固有の「八尺瓊の勾玉」は、なにを意味するのでしょうか。

もとは「むじな」の腹にあって、今は「石上神宮」にあると記されています。
「むじな」は、学術的にはアナグマやタヌキまたはハクビシンなどのことではないかといわれていますが、『日本書紀』の記述には、たびたび「むじな」が出てきます。
それは「よからぬ人」や「正体不明の一族」また、ワケあって「事実を記せない人」をさします。

『日本書紀』編纂当時、「今は石上神宮にある」と記されている以上、やはり石上神宮にかかわる物部氏の支配地を象徴するといえます。

つまり、石上神宮を拠点とする物部氏の祖「饒速日命」(にぎはやひのみこと)こと「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてる ひこ あめのほかあり くしたま にぎはやひの みこと)の支配地だった地域です。

物部氏は、日向の曾(そ)の山に天降り、出雲にもかかわるのはもちろん、上述の「むじな」の丹波国(現京都府)や畿内国をはじめ、東北にも勢力を伸ばしています。

結局は、「神武天皇」の東征に際して、国を譲った物部氏の祖「饒速日命」の勢力圏を象わしているのが「八尺瓊の勾玉」です。


※ 物部氏は、紀元前7~8世紀ごろ、珍物や鉱脈を探しに日本にやってきた古代オリエントの一族にかかわります。
当時は、長野の「諏訪」を通る「糸魚川静岡構造線」の断層地帯に“鉱脈”がむきだしになっていたのは“当然”で、鉱脈を探しにきた古代オリエントの一族も、また最高級の「ヒスイ」製であろう「八尺瓊の勾玉」も、ここにかかわります。
腹から八尺瓊の勾玉が出てきたという「むじな」の正体は、私見では、この“古代オリエントの一族”を意味するのではないかと考えています。




「三種の神器」のルーツ 3
2017.05.29
今回は「三種の神器」のうち「草薙の剣」のルーツについてです。

草薙の剣は、ご存じのように、もともとは一書にいう「天の叢雲剣」(あまの むらくもの つるぎ)でした。
記紀によれば、素戔嗚尊(すさのおの みこと)が、出雲で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに、その尾から出てきたとされています。

ここで「素戔嗚尊」は誰なのか、また「八岐大蛇」とは何かのご紹介は、煩雑になりますので、ご説明は省略いたします。
神話でいう「八岐大蛇」なる大ヘビが実在するわけではありませんし、その体内から「剣」が出てくることもありません。

それはともかく、天の叢雲剣は、『日本書紀』の「神代紀」(上)では、草薙の剣と名を変えて、今では尾張国にあるとしか書かれていません。しかし、「景行天皇紀」をよむと、日本武尊(やまとたけるの みこと)が焼津で草をはらったことによって、草薙の剣というようになったことが書かれています。

このあたりは、『日本書紀』のロジックで、「神代」と「景行天皇」の時代が錯綜しているのですが、むずかしく考える必要はなく、実は同じ時代のことを、わけあって神武東征以前の「神代」と東征以降の「景行天皇」(架空の天皇)の時代が、あたかも異なるかのように記録しているだけです。

このことがわかると、結局、天の叢雲剣こと「草薙の剣」は、出雲国が国譲りをしたさいに天孫族の天皇(大王)に国を治める“みしるし”として差し出したものであることがわかります。

ただ、ことは単純ではないのです。

なぜなら、出雲国の大国主神(おおくにぬしの かみ)の勢力は、出雲にとどまっていたのではなく、実は“神武東征”以前の畿内国こと大和をはじめ本州国の大半をすでに治めていたからです。

「大国主」という意味は、そのような日本国の国主であったことを象わします。
その豪族たちの集会地が中間に位置する畿内国(現在の奈良)であって、台与を旗頭にした北部九州連合「倭国」の勢力が3世紀末に東征し、記紀にいう「国譲り」が成立します。

その国譲りに際して差し出したのが、天の叢雲剣こと「草薙の剣」です。

なので「草薙の剣」は日本国(本州国)を治める象徴なのです。
ですが、『古事記』や『日本書紀』には、国を治める正統性が最初から天皇にあったという論旨にしていますので、そうとは書けないために出雲国のお話にして、もともとの大和の支配者をあいまいにしています。

つまりところ、でなければ大和の三輪山に出雲の神とされる「大物主神」を祀る必要がないのです。
ちなみに、男性神である元祖「天照大御神」は、大物主神(大国主神)側の大王で、最初に大和を治めていた物部氏の祖神「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてる ひこ あめのほかあり くしたま にぎはやひの みこと)だといったら驚かれるでしょうか。

一時、今でいう伊勢の内宮に祀られていたのですが、今は外宮の別宮(わけのみや)に遷祇されています。

それはともかく、三種の神器のひとつ「草薙の剣」は、本来、出雲国はもちろん、畿内国をはじめとした本州国を治めていた大国主神(大物主神、大已貴神、大国玉神 etc.)が所有していました。

国譲りに際して、その“みしるし”として天孫族の大王(俗に「神武天皇」)に差し出したものです。

それゆえ、「八咫の鏡」と「草薙の剣」を所有するものは、統一大和(日本国)を治めるものとしての“みしるし”になっています。

その後、7~8世紀になって「八尺瓊の勾玉」が三種の神器に加わりますが、こちらも同じ意味をもちます。

では、勾玉が象徴する国は、どこなのでしょうか。



「三種の神器」のルーツ 2
2017.05.26
ここからは「三種の神器」のルーツについて書いてまいります。

すでにご存じの方も当然いらっしゃると思いますが、三種の神器の中で「八咫の鏡」は別格です。

なぜなら、即位の儀において行なわれる「剣璽等継承の儀」は、「草薙の剣」と「八尺瓊の勾玉」ならびに「御璽」と「国璽」を継承しますが、「八咫の鏡」は宮中の賢所から動かされることはありません。

もっとも、八咫の鏡にせよ草薙の剣にせよ、ご本体は、それぞれ伊勢の神宮と熱田神宮に奉祀されており、いずれもその形代(レプリカ)をもって片や賢所に奉斎され、片や継承の儀にもちいられるのはご存じのとおりです。

では、なぜ「八咫の鏡」は動かされないのかというと、もともと天皇(大王)が治める国を象徴するものだからです。

具体的には、賛否はあると存じますが、3世紀末に九州倭国の2代目女王「台与」を旗頭に、畿内国(大和)に東征したさいに、倭国を象徴したものが「八咫の鏡」だったからです。

諸説はありますが、卑弥呼の邪馬台国(やまたいこく:やまと)を女王の都とする北部九州連合「倭国」の和の統治形態をモデルに、結果として、統一大和においては「天皇」を中心とする和の統治「大和」(やまと、大きい和国)が形勢されたために、倭国の象徴であった台与の鏡すなわち「八咫の鏡」は、引き続き「大和」の象徴として天皇が変わっても動かされることはないわけです。

一方、「草薙の剣」や「八尺瓊の勾玉」は、大和統一にさいして、国譲りや服従してきた国々の象徴であるために、代々の天皇は、それらの国々の統治を引き継ぐ意味において、即位にさいしては「剣璽等継承の儀」によって「草薙の剣」と「八尺瓊の勾玉」を受けつぎ、統一大和を治める天皇の“みしるし”とします。

なので、お気づきのように「八咫の鏡」は、卑弥呼から台与が受けつぎ、東征ののちは、大和を治める大王(天皇)が権威の象徴として受けついできました。

すなわち、もともとは倭国大乱ののち、北部九州連合「倭国」を和をもって治めた女王の象徴であり、東征ののちは全国統一を平和的に成そうとされた統一大和連合の大王(天皇)がもつ統治の象徴だったわけです。

では、「八咫の鏡」のルーツは明らかになりましたが、残りの「草薙の剣」と、後日、7~8世紀になって三種の神器に加わった「八尺瓊の勾玉」は、どの国々を治めるものがもつ権威の象徴であったのかということです。



「三種の神器」のルーツ 1
2017.05.25
先回に続き「三種の神器」をとりあげます。

今回は、そのルーツは何かということですが、そのまえに「三種の神器」の意味についてひとこと書き添えておきます。

「三種の神器」といえば、今では天皇の“みしるし”として定番です。

しかし、7~8世紀の『日本書紀』の奏上まで、実際には「八咫の鏡」と「草薙の剣」の2種の神器でした。
それは、『日本書紀』に記された最後の天皇、持統天皇紀をみても明白で、持統天皇紀には、二種の神器しか記されていません。

その後、天武天皇と持統天皇の孫、文武天皇から「八尺瓊の勾玉」が加わり、当時の『日本書紀』の「神代」(下)に記されたように、瓊瓊杵尊の天孫降臨に際して「三種の神器」を賜ったとはじめて記され、以降、名実ともに「三種の神器」が定番となっていきます。

では、「三種の神器」とは、何を意味するのでしょうか。

正解は、それぞれの国(地域)また国を治めた者がもつ象徴です。
それゆえ、それら3つの神器を手にしたものが、統一日本、いわゆる7~8世紀にはじまった統一大和を統べる「天皇」の“みしるし”になります。

ご理解できますでしょうか。

ご納得できない方もいらっしゃるかもしれませんが、残念ながら『日本書紀』の編集方針から読み解いていくと、それまでバラバラだった各国を一つにまとめた大和朝廷を統べる天皇としての“証明”が「三種の神器」になっていることは否めません。

それゆえ、平家にせよ源氏にせよ、天皇すなわち公家政権から、武家政権にとってかわるためには、その証明として「三種の神器」を手に入れることが第一義となっていました。

平家が滅亡した壇ノ浦の戦いで采配をふるった源義経が、戦いに勝ったにもかかわらず、兄の頼朝から激しく叱責されたのも、結局のところ「三種の神器」のうち「草薙の剣」を見失い、持ち帰ることができなかったためです。

武家でもあり、母が熱田神宮の出自でもある頼朝にとって、「草薙の剣」こそが、これからはじまる自らの武家政権にとってシンボルでした。

頼朝にとっては、平家に勝つことよりも、草薙の剣をはじめとした「三種の神器」を手に入れることが、天皇や公家や平家にかわって、日本を治める政権を奪取する名目だったのです。
ですが、そのことを理解できなかった、政治にうとい義経は、戦いの勝敗こそが本義だと思ってしまい、兄頼朝とのミゾを深めていきます。

結局のところ、「三種の神器」は統一日本を治めるものがもつ“みしるし”というのが、その本質に間違いはありません。




「聖徳太子」は創作された 3
2017.04.17
最後に、『日本書紀』の記述から「創作」の証拠をいくつかピックアップしておきます。

祟峻天皇の時代。
仏教をめぐる蘇我氏と物部氏の戦いである「丁未の乱」(丁未の変、丁未の役、物部守屋の変)で、若き日の聖徳太子こと厩戸皇子は、「負けるかもしれない」と思って急遽、戦場で四天王の像をつくります。
そして、勝たせてくれたら「寺塔を建てましょう」と誓願し、勝ったのち「四天王寺」を造ったというお話は有名です。

ですが、当時、厩戸皇子は13歳。そこまでの権力はまだありません。

実は、『日本書紀』には、そのとき、蘇我馬子も勝たせてくれたら「寺塔を建てて三宝(仏・法・僧)を広めましょう」と誓願したと書かれています。
権力もない厩戸皇子が単に「寺塔を建てましょう」と言ったのと、権力を掌握していた蘇我馬子が「寺塔を建てて三宝を広めましょう」と誓願したというのとでは、誰がみても蘇我氏のほうにリアリティーがあります。
なので厩戸皇子こと“聖徳太子”は創作で、ほんとうは蘇我氏のエピソードです。

次に、推古天皇の時代です。
推古元年、すなわち即位してすぐに推古天皇は19歳の厩戸皇子を皇太子に立てて「国政のすべてを任せた」と書かれています。

1、翌2年、皇太子と蘇我馬子に詔して、仏教の興隆を図られます。
2、11年、来目皇子が薨去し、皇太子と蘇我馬子を召されて詔されます。
3、13年、推古天皇は、皇太子と蘇我馬子、および諸王や諸臣に詔されています。
4、15年、皇太子と蘇我馬子は、百寮を率いて神祇を祀り拝します。
5、28年、皇太子と蘇我馬子は、相議って天皇記および国記と多くの本記を記録します。

翌29年に、厩戸皇子は48歳で薨去します。
推古紀には、権威づけのための厩戸皇子のエピソードと、蘇我馬子大臣のリアルなエピソードも、2~3、記されていますが、大半が上述のように「皇太子と蘇我馬子」の併記なのです。
国政のすべてを任された厩戸皇子なのに? ヘンだと思いません?

なので、これもほんとうは蘇我馬子が“摂政”、というか推古は国政のすべてを任せるしかない傀儡(かいらい)だったので、実質は“蘇我大王”(天皇)だったことをあらわしています。

もう一つ、聖徳太子の「十七条憲法」のくだりを書いておきます。

●『日本書紀』から抜粋
(12年)夏4月3日、皇太子は、はじめて自ら作られた十七条憲法を発表された。
【原文】
夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親肇作憲法十七條。

もし、厩戸皇子(聖徳太子)がほんとうに摂政であれば、ここはシンプルに「皇太子は十七条憲法を発表された」でよいのです。
しかし、原文、「親肇作」、すなわち「はじめて“自ら”作られた」とわざわざ“ことわり”を入れています。

このように不必要な記述を入れる場合、まず「蘇我馬子が作ったものではない」とメッセージしたいのはもちろんです。
ですが、ほんとうは作者が“聖徳太子”ではないために、太子作かのように念押しの偽装をしているのです。

実際は、蘇我馬子の作(原案)です。
しかし、後年、『日本書紀』編纂の時点で、蘇我本宗家を滅ぼした「中大兄」(天智天皇)の皇孫と「中臣氏」(藤原氏)の子の藤原不比等が権力中枢にいて、編纂にもかかわっているために『日本書紀』には書き残せないのです。
もし書けば、『日本書紀』で「逆賊」に貶められた蘇我氏の「十七条憲法」など、だれも信用しなくなります。
そういうことからも、それは絶対に書けません。

結局、厩戸皇子こと“聖徳太子”を創作して、“聖人”にして“天才”が書いたことにし、このときに『日本書紀』に残された条文ように編纂者が修正を加えたというのが真相です。
そして、第1条「和」をもって貴しとし、第2条あつく「仏・法・僧」を敬い、第3条「天皇の詔」には必ず従うべく信頼性を高め、日本の安定と統一と天皇の維持を図ったわけです。





「聖徳太子」は創作された 2
2017.04.14
表題「1」の続きです。

では、なぜ推古女帝の当時、蘇我馬子が実質上、大王として実権を握り、いわゆる“天皇”だったことを『日本書紀』は書けないのでしょうか。

当時の歴史をご存じのかたなら、すぐにご賢察できるはずです。

後日、「天智天皇」となった中大兄が、乙巳の変において馬子の孫の蘇我入鹿を殺害し、蘇我本宗家は途絶えました。

蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三代は、実質上の“大王”(天皇)だったにもかかわらずです。

もし、『日本書紀』が、正直にこのことを記せば、隋の冊封体制から日本を独立させ、統一国家の礎を築いた阿毎多利思比狐(あまの たりしひこ)大王(おおきみ)こと蘇我大王家を、中臣鎌子(後の藤原鎌足)とともに中大兄(後の天智天皇)が滅ぼし、いわば後年の天皇が現天皇を殺害して「皇位争い」をしたことになります。

『日本書紀』は、「二度と皇位争いは起こさない」という天武天皇の強い意志のもと、万世一系の天皇の正統性を記すのが骨子(主旨、編集目的)です。

ほかにも理由はありますが、この点からも、蘇我一族が“大王”(天皇)だったことは、『日本書紀』は書くことができません。

しかし、蘇我馬子は、日本の独立と統一の礎を築いた立役者であるばかりではなく、「冠位12階」を定めるなど仏教(学問)の導入と律令国家としての近代化を図り、遣隋使を派遣するなど、隋との対等な関係を築いた功績者です。

そういった功労者の蘇我氏を、権力に執着した中大兄が滅ぼしてしまった以上、正しく記せば、いわゆる臣下が実質上の天皇を「弑逆」し、途絶えさせたことになりますので、けっして『日本書紀』に歴史として残すことはできません。

そこで「聖徳太子」を創作します。
蘇我馬子の功績は「聖徳太子」、すなわち“厩戸皇子”の功績かのように『日本書紀』に記すことで、歴史的事実とのつじつま合わせが可能になります。

推古政権を“厩戸皇子”(皇太子)と“蘇我馬子”(大臣)の2人の総理大臣が仕切ったと書かれているのはそのためです。
実はこの2人、同一人物なので当然です。

「厩戸」というのは“うまやこ”とも読めるように、蘇我馬子“うまこ”を示唆したネーミングになっています。

後世の人は、彼の遺徳を称えたのか、それとも蘇我氏の怨念を鎮めようと美称を奉ったのか、または仏教を日本に根づかせた功績ゆえか、死後50年ほどたって「聖徳太子」と別称するようになりました。

ただし、『日本書紀』に「聖徳太子」という名称は一度も出てきません。
あくまでも「厩戸皇子」または「上宮厩戸豊聡耳太子」(かみつみやの うまやどの とよとみみの ひつぎのみこ)です。


※注)
講談社学術文庫『日本書紀』(下)では、「推古天皇紀」に著者もしくは編集者が立てた小見出しに「聖徳太子の死」とあります。直後の本文にも、たしかに「夜半、聖徳太子は斑鳩宮に薨去された」とあります。ですが、これは間違いです。
『日本書紀』の原文では、「半夜 厩戸豐聰耳皇子命薨于」となっていて“聖徳太子”とはどこにも記されていません。ほかにも、原文に「中大兄」としか書かれていないのに、かってに「中大兄皇子」と書き改めるなど、一般書ならともかく、“学術文庫”としてはおそまつな一面があります。





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