幻想の卑弥呼と正統の台与
2017.08.03
昨今、いくつかの番組などで、「卑弥呼」または「邪馬台国」を目にします。
そこで学者さんなどが“諸説”を語ります。

そのとき、ほぼ共通していえるのは「卑弥呼」を“英雄”かのように語っていることです。
残念ながら日本にとっては“英雄”かどうかは半分半分です。

もう少し具体的に申し上げますと、卑弥呼というのは、たしかに「倭国大乱」によって女王に共立されました。
しかし、その一方で、今の中国すなわち当時の「魏」からみれば、“親魏倭王”の金印を卑弥呼に仮授したことなどからわかるように、東夷(東の蛮族)の傀儡政権の女首長にすぎません。

つまり、魏からみれば“蛮族の傀儡王”で、逆に私たちの日本すなわちのちの「統一大和」からみれば、当時の事情はともかく、正しくいえば“売国奴”です。
それが倭の女王“卑弥呼”の客観的な立ち位置です。

その証拠に、万世一系の天皇を描いた『日本書紀』には“卑弥呼”のヒの字もでてきません。

当たり前です。
7世紀はじめ、当時の九州倭国王「阿毎多利思比狐」(あめのたりしひこ)は、倭国の政務を「日本」(畿内国)に委ねることで、隋の冊封体制から離れました。
要は、日本国として独立融合したのです。

そのため7~8世紀の統一大和は、魏の傀儡政権だった卑弥呼を、独立国をうたう『日本書紀』に残すわけはありません。

そういう実情があるにもかかわらず、大国主の王族の墓だった畿内の「箸墓古墳」を“卑弥呼の墓”という学者や歴史マニアがいます。

当時、九州「倭国」と同時に、出雲また畿内などに本州「大国主連合」が成立していました。
考古学的にいえば“銅鐸文化圏”がそれです。

そういった歴史的事実を知ってか知らずか、「邪馬台国は畿内」だったと主張することの意味は、それが事実に反しているのはもちろんのこと、日本が中国の冊封体制下にあった“属国”だったと主張しているに等しいことです。

残念ながら、「魏志倭人伝」に記される卑弥呼の倭国は、今の福岡県の西3分の2程度の地域です。
それだと大陸にくらべて、あまりに小さいので、戦略上、28宿7曜にもとづいて距離や日数などの数字を約7倍にして記録しました。
なにしろ“白髪三千丈”と記すこともある民族です。それくらいの偽造は朝メシ前です。

それはともかく、そんな卑弥呼に敵対したのが狗奴国王です。

彼は結局、卑弥呼亡き倭国を手中に治め、13歳の「台与」(とよ)を傀儡として“2代目女王”に立て、北部九州連合「倭国」を完全に掌握します。

その後、大人になった「台与」を旗印に3世紀末に大和(畿内)に東征し、“銅鐸文化圏”を滅ぼしてのちの日本国(畿内国)の礎となります。
ここに倭の女王“卑弥呼”の立場と、日本国(畿内国)の象徴女王となった“台与”の大きな立場の違いがあります。

それゆえ『日本書紀』には、伝統的に“とよ”(豊)という名前のつく歴代天皇(大王)の和風諡号が多くみられます。


古代史の秘密を解くカギ6
2017.07.25
『日本書紀』は、6世紀までの九州「倭国」の王をメインとした歴史を、神武東征以降、最初からの「統一大和」(畿内)の天皇(大王)の歴史として記しています。

そのため、とくに「地域」や「場所」の記述は、史実とは異なる点が多々ありますので、事実を究明しようとするときには注意が必要です。

ただし、「万世一系」の天皇として読むぶんには、多少異なる点はあっても、天皇(大王)政権はブレながらも、結局は元に戻っていますので、まだ許容範囲です。

つまり、『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じた大海人皇子こと海人族に連なる「天武天皇」は、ご本人はともかくその先祖は九州「倭国」を出自とします。

それゆえに、壬申の乱に勝利して「天皇」になったとき、自らの正統性を示し、皇位の安定による世の平和を図るべく、記紀によって「万世一系」を証明しようとしたわけです。

もちろん、7世紀初頭に九州「倭国」と畿内「日本国」が吸収合併し、統一大和の礎を築くまで、畿内国にも王がいました。

『日本書紀』は、本州畿内国の大王を、九州倭国の大王の皇統に「万世一系」かのようにつなげます。
そのキーパーソンが第29代「欽明天皇」で、両国の大王を欽明天皇の息子や娘とし、あげく第30代「敏達天皇」と第33代「推古天皇」を夫婦にしています。

この間、蘇我氏の娘を母にもつ第31代「用明天皇」と、同じく第32代「祟峻天皇」が即位し、いずれも欽明天皇の皇子とされますが、少なくとも推古天皇は大和(畿内国)の天皇で、実質的には九州倭国からきた蘇我馬子の傀儡政権になっています。

そんなことも、「3つのカギ」によって見えてくる史実の一つです。


お話は変わりますが、半島に九州「倭国」の領土があったことは、日韓中の史書にハッキリと書かれています。

戦前戦後の「日韓併合」にこだわらずに、この事実を認めないと、古代史の事実は見えてきません。
『後漢書』には、“狗邪韓国”が倭国の北西界(境界)ということが書かれていますし、『三国志』「魏志倭人伝」には、“狗邪韓国”が倭国の北岸ということが書かれています。

今回はもう一つ『三国志』「韓」の条をご紹介します。

●『三国志』韓条より抜粋
韓は帯方の南にあり、東西は海をもってかぎりとなし、南は倭と接す。
方四千里ばかり。三種あり。一に馬韓といい、二に辰韓といい、三に弁韓という。
(中略、弁韓の)涜盧国は倭と境を接す。

「韓」は今の韓国界隈ですが、その南は海ではなく「倭と接す」と記されています。
なので、半島の南端部すなわち狗邪韓国は、卑弥呼の邪馬台国の3世紀、「倭」であったことがわかります。

その後、もろもろの史書や今の北朝鮮にあたるかつての高句麗の「好太王碑」の碑文からは、「倭の五王」に連なる4世紀~5世紀はじめに、ほぼ半島全土を「倭」が席巻していたことが記されています。

もっとも、韓国人学者は例によって、「日本軍」が碑文を改ざんしたとか、読み方(主語)が違うとか、いわゆる難クセをつけて史実を捻じ曲げようとしますが、すでに改ざんはなかったことが明らかになっています。

要は、宋から“安東(大)将軍”や“倭国王”に除された「倭の五王」は、必ずしも『日本書紀』に記された天皇(大王)とはかぎらず、九州「倭国」王やもしくは出先の半島の「倭」の王だった可能性などが、「3つのカギ」をもって古代史をひもとくことでみえてくるわけです。


【付記】つい最近、2011年に発見された梁の時代の『職貢図』には、新羅が「或るときは韓に属し、あるときは倭に属した…」と書かれています。


※この項、「終わり」。




古代史の秘密を解くカギ5
2017.07.24
細かなことはいずれ機会をみて書くとして、古代史の秘密を解く3つのカギから何がみえてくるか、ということです。

『日本書紀』では、紀元前7世紀に神武天皇が東征してのち、畿内大和に万世一系の「天皇政権」ができたことになっています。

しかし、大和に名実ともの万世一系の天皇政権ができたのは、7世紀以降のことです。
つまり、それ(統一)までは、畿内に政権がなくはなかったのですが、結論的にいえば、九州「倭国」王の皇統(王統)がベースとなっています。

「阿毎多利思比狐大王」(あめの たりしひこ おおきみ)が九州「倭国」の政務を弟国の畿内「日本国」にゆずるまで、『日本書紀』に記される歴代天皇(大王)の大半は、九州「倭国」王のお話でした。

なぜなら、『古事記』には、ご存じのように「出雲建国」のお話が最初の1/3を占めます。
しかし、大和政権が編纂した『日本書紀』は、出雲のお話を割愛し、その後の歴代天皇記と一部に差異はあるもののほぼそのまま掲載しています。
このことは、次のようなことを示します。

1、出雲は、統一大和の天皇とは別系統。
2、九州「倭国」の大王は統一大和の天皇に連なる。

7世紀、統一大和の皇位の正統性を示すために、誰が『日本書紀』を編纂したのかという「第1のカギ」と、『古事記』との相違という「第2のカギ」から、上述のようにいえます。

つまり、阿毎多利思比狐によって、7世紀初頭に九州「倭国」と畿内「日本国」が合併します。
そののち、7世紀末から8世紀初頭にかけて、統一大和の「天皇政権」の正統性が『日本書紀』によって編纂されていくわけです。
その内容が、紀元前7世紀における“神武天皇”の当初から、統一大和の“天皇政権”だったというストーリーです。

結果的に間違っているとまではいいませんが、ことは単純ではなく、『新唐書』「日本伝」には、次のように記されています。

●『新唐書』「日本伝」より抜粋
1、その王の姓は阿毎(あめ)氏。あるいは自らいう。(中略)筑紫城に居す。
2、使者自ら(中略)あるいはいう「日本は小国にして、倭の合わす(合併する)ところとなる」と。

「筑紫城」というのは、日本でいえば“筑紫の都(街)”のことです。
そこに九州「倭国」王がいました。
今でいう太宰府天満宮のある「筑紫野市」あたりで、かつての邪馬台国に含まれる地域です。

『新唐書』では、また「日本」というネーミングについて、「日の出ずるところに近い」(九州からみて東の意)や「倭を日本が併合した」からだと述べています。
かつては倭(九州)からの使いだったのが、今は日本(大和)からの使いだというので、なぜかを問うと上述のように、倭国(九州)はその東にある日本(畿内大和)に併合された(つまり隋の時代に冊封から離れたという意)からだというわけです。

その後の一文がふるっています。
『新唐書』が記すに「これを疑った」。
すなわち、ほんとうに併合されたの? 日本国への合併は、倭国が隋の冊封体制から離れる方便だったのではないの? というわけです。

使者は言葉を濁します。
いずれにしても、7世紀はじめに日本(九州倭国を含む)は独立しました。

それゆえ7~8世紀に編纂された『日本書紀』は、「神代」(上)一書において、伊弉諾尊が日本に帰って悔いていうに「私は先にひどく汚いところに行ってきた」といって筑紫で祓(みそ)ぎはらいをされて、天照大神と素戔嗚尊と月読を生み、ここから独立日本のエピソードがはじまっていきます。

以上は「3つのカギ」から見えてくる一例で、ほかにも書くべき事実は多くあります。

要は、7世紀の統一大和までの『日本書紀』の記述は、事実とは異なり最初からの統一大和(畿内史)として編纂されていますので、とくに地域や場所に史実とは異なる点が多々あります。
それらを検証しないまま、すべてを信じると、“邪馬台国畿内説”のような勘違いはもちろん、“箸墓古墳は卑弥呼と墓”だといった誤まった歴史観を信じることになってしまいます。




古代史の秘密を解くカギ4
2017.07.22
『日本書紀』編纂の目的と意図、『古事記』との相違についで、古代史の秘密を解くカギの3番めは、俗称「魏志倭人伝」といった一連の「日本伝」(倭国伝)です。

日本の歴史学会や歴史マニアのあいだでは、敗戦後、大陸や半島のことを“悪く”(正しく)書けない風潮が蔓延しました。

同時に、戦後に共産主義運動が台頭すると、日教組をはじめとしたマルクス史観の学者たちが、教育界を席巻したこともあり、中国や北朝鮮を素晴らしい国や地上の楽園かのように、反政府(反権力)のマスコミも報道したこともあり、日本の文化はすべて大陸や半島から渡ってきたかのように解釈されました。

最近でこそ、少し是正されましたが、それでも大手マスコミにはかつての“弊”が色濃く残っています。

何を言いたいのかというと、卑弥呼の時代もそうですが、第26代「継体天皇」の時代まで、九州「倭国」は朝鮮半島に領土をもっていました。
その前の「倭の五王」で知られる4世紀あたりをピークに、半島の大半を勢力下においたほどです。

しかし、そのようなことは、書けるはずもありません。
一般の歴史家も書くことはできませんでしたし、マルクス史観の歴史学者などは、ハナから“つくり話”として歯牙にもかけなかったほどです。

なぜかといえば、半島を倭国(日本)が占領したことは、戦前の“日韓併合”の歴史を想起させるため、アンタッチャブルな“タブー”になっていたからです。

それが少し毛先が変わったのは、つい最近の“嫌韓”や“嫌中”の認識が広まったあたりからで、それまで70年近く、正しい歴史を書けない風潮が続いていました。

たとえば、卑弥呼や邪馬台国が記される「魏志倭人伝」には、通常の読解力で読めば、ハッキリと九州「倭国」の北の国端が「狗邪韓国」(くやかんこく)だったことが書かれています。

ですが、そのことを事実として認めることはもちろん、議論することさえできなかったのです。

以上は一例ですが、『後漢書』や『三国志』、『宋書』や『梁書』、『隋書』や『旧唐書』また『新唐書』を読めば、その中の「倭条」や「倭人条」また「倭伝」や「倭国伝」また「日本伝」には、記述内容のすべてが正しいわけではありませんが、『日本書紀』と異なる箇所や補足できる記述が散見できます。

それらを客観的に検討することで、新たな視点や正しい歴史がみえてくるのです。

たとえば、有名な「倭の五王」は、半島を治める「安東(大)将軍」や「倭国王」に任じられたことが書かれています。
それが『日本書紀』のなかでどの天皇かということよりも、“倭国王”が半島の大半を治めていたことのほうが歴史の真相の解明には重要です。

ですが、それを無視して、「倭の五王」が誰か天皇探しをしますが、父子関係や兄弟関係が当てはまらず、いまだに推測が続いています。

当たり前です。

この時代は、半島の大半を九州「倭国」が支配していましたので、それを認めないまま、大和の「天皇」(大王:おおきみ)にあてはめること自体にムリがあります。

『日本書紀』に記されているとおり、第26代「継体天皇」が倭の領地(任那)を百済に割譲するまで、かつての倭の五王の時代にくらべればだいぶ小さくなりましたが、依然として半島南部には九州「倭国」の一部があったのです。

ほかにも書く内容はありますが、このような「日本伝」をカギに、『日本書紀』との整合性や真贋を検討していくことで、彼我の歴史の事実が見えてきます。


※戦後になって「前方後円墳」が朝鮮半島から発見されました。やはり韓国から日本に渡ったものだと大騒ぎになりましたが、調査の結果、日本のほうが古く、半島のほうが新しいことがわかりました。
すると彼らは、“山”の部分を崩して「前方後円墳」のカタチを変えてしまったのです。
一事が万事こんな調子なので、彼らの歴史観や主張が正しいと信じたり、そう思い込むと、事実を誤認するばかりではなく、痛い目にあいます。
それでも彼らの考えは「ダマされるほうが悪い」であって、日本人とはメンタリティーが異なります。



古代史の秘密を解くカギ3
2017.07.20
具体例はあとまわしにして、『日本書紀』をベースにした古代史の秘密を解く第2のカギをご紹介します。
それは『古事記』です。

「神話」をふくめて、同じ日本の古代史を記録しながら、記紀には大きな相違がいくつかあります。
代表的なものを挙げると次の3つです。

1、『古事記』の1/3をさいた「出雲系の記録」が『日本書紀』には「神代」にごく一部しか記されない。

2、『日本書紀』では、歴代天皇と同じく1巻をさいて記された「神功皇后」が『古事記』にはない。

3、『古事記』は推古天皇までしか記されず、『日本書紀』には持統天皇までが記されている。

これらはだれもが指摘するところです。

目新しくもないこの違いが、どうして古代史の秘密を解くカギになるのでしょうか。

それは先回、書きましたように、誰がどのような意図と目的で『日本書紀』を記したのかという最大のカギで、まず最初の“秘密の扉”を開けないと知ることができません。

つまり、『日本書紀』の編纂者が、「出雲」のお話をカットし、「神功皇后」に1巻をあて、「持統天皇」まで記載したというのは、統一大和にとって、そのほうが確実に「万世一系」の礎となるためです。

『日本書紀』は、天智系また天武系天皇の「万世一系」、すなわち皇統の正当性を“裏付け”て、確固としたゆるぎなきものとしていくことが最大の編纂目的です。

なので、それにそった歴史記録は、優先的に記載し、そうでないものは記載しないか、簡略化するか、または別のお話にカタチをかえて記載しています。

このような第1の“カギ”を使うと、『古事記』との相違が、意味をもつものとしてみえてきます。
おおむね、次のようなことです。

1、出雲系の記録が簡略化され神代にしか記されない理由

この答えは簡単です。
統一大和の「天皇」とは異なる本州「大国主連合」のお話なので、万世一系の天皇の皇統には属さない記録であるためです。

事実、統一大和の「天皇」は、彼ら大国主系から“国譲り”を受けてのち、天照大神から孫の瓊瓊杵尊の「天孫降臨」をもって4代後の「神武天皇」から万世一系の皇統がはじまるとしています。
なので『日本書紀』は、「出雲系の記録」を神武以前の神話にしてしまいました。

それゆえ「出雲神話」と呼ばれるのですが、それこそ『日本書紀』に丸め込まれてしまった証拠で、出雲のお話を架空の「神話」とかたづけるわけにはいきません。
出雲に大国主系の拠点があったのは事実で、それゆえ荒神谷遺跡から日本最多の銅剣や銅鐸が出土しています。
出雲もそうですが、大和以前の畿内にも、また越や尾張などにも、出雲系の「大国主連合」が築かれていました。

もし、出雲や大国主連合を史実として認めると、統一大和の「天皇」より先に日本を治めていた国の主であることがバレてしまいますので、出雲の素戔嗚尊を天孫族かのように記しました。

2、『日本書紀』に神功皇后紀がある理由

基本、『日本書紀』が1巻をさくということは、表向きは記載できないものの、その時代には「天皇」(大王:おおきみ)がいたことを意味します。

たとえば、天武天皇紀は、上巻の「壬申の乱」と、それに勝利してのち下巻の「即位後」にわけられています。
後者の天武天皇紀(下)は、第40代「天武天皇」そのものの記録ですが、前者の上巻「壬申の乱」は、本来、第38代「天智天皇」の皇子(大友皇子)の第39代「弘文天皇」(追諡)のものです。

それをはるかにさかのぼりますが、『日本書紀』の第7巻は「景行天皇」と「成務天皇」の二人が記され、第8巻は「仲哀天皇」、第9巻は「神功皇后」、第10巻は「応神天皇」となっています。
このあたりには架空の天皇もいるのですが、第7代「景行天皇」と第8代「成務天皇」を同じ巻に記すことで、神功皇后をはさみながらも、第10代「応神天皇」へとつじつま合わせをしています。

それほど神功皇后の時代は、統一大和の「天皇」(万世一系)にとっては重要で、弘文天皇と同様に史実として残せない事情があったわけです。
つまり、これまた別の「天皇」(大王:おおきみ)の存在が秘められており、“神功皇后”をもって代用されています。

ちなみに、神功皇后の時代に活躍したのは武内宿禰で実質の大王でした。

3、持統天皇で『日本書紀』が終わる理由

これはいうまでもありません。

天照大神になぞらえられた「高天原広野姫天皇」こと持統天皇が、皇孫瓊瓊杵尊になぞらえられた「倭根子豊祖父天皇」(天之真宗祖父天皇)こと孫の文武天皇への譲位が成功し、『日本書紀』の編纂目的である「万世一系」が名実ともに成立したためです。

なのでこれ以上、記載する必要はありません。

つまり、『日本書紀』は、神代でまず「天照大神」の正当性を記し、天照大神から孫の瓊瓊杵尊へ“三種の神器”による「天孫降臨」にはじまる初代「神武天皇」の東征神話から、第41代「持統天皇」による孫の第42代「文武天皇」へと譲位することによって完結する「万世一系」のお話なのです。

では、『古事記』が、第31代「用明天皇」、第32代「祟峻天皇」、第33代「推古天皇」と、最後の3代の天皇に関する記載がほとんどないまま、蘇我馬子が“大臣”となった傀儡「推古天皇」で終わるのは、なぜでしょうか。

こちらは、九州「倭国」の阿毎多利思比孤(あまの たりしひこ)大王が、隋の冊封体制から離れるために、九州「倭国」の政務を畿内大和の「日本国」に移行し、九州「倭国」の歴史がここで終わったからです。

蘇我氏が台頭していく6世紀末~7世紀初頭の出来事ですが、両国の統合によって、ここから7~8世紀の統一大和への歴史がはじまっていきます。

要するに『古事記』は、蘇我氏がもっていた出雲をはじめ九州「倭国」の帝紀や歴史を記したものです。

それを蘇我氏を滅ぼした中大兄こと後の天智天皇また、その皇子を滅ぼした倭国系の大海人皇子こと天武天皇、すなわち統一大和の「天皇」が、「万世一系」をメイン・ストーリーに大和国の歴史として脚色したものが『日本書紀』になっています。


※複雑な古代史を、シンプルに書いてご説明すると上述のようなことです。
機会をみて、詳細なご説明を加えた“ナゾ解き古代史”をアップするかもしれません。





古代史の秘密を解くカギ2
2017.07.18
『日本書紀』は、なんの目的も意図もなく記された「歴史書」ではありません。

逆に、あまりにも明確な意図と目的があって、史実をベースとしながらも相応に「虚実」とりまぜて記録されています。
まずは、その意図や目的を知ることが、古代史の秘密をとく最大のカギになります。

『日本書紀』は、第40代「天武天皇」によって発案されました。

ご存じのように天武天皇は、はじめて「天皇」と号し(名乗り)、「二度と皇位争いを繰り返さない」と誓います。
そのために天皇の地位と正統性を明白にすることを考えて、「万世一系」を創出し、『古事記』や『日本書紀』に残そうとされたわけです。

それ以前にも、各豪族また蘇我氏などが、古代史を記録していました。
しかし、天武天皇はその記述に間違いが多いとして『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じます。

その編纂は、天武天皇の皇子で「舎人親王」(とねり しんのう)が総裁をつとめます。
人の好い歌人の舎人親王ですが、同時に当代随一の知恵者「藤原不比等」も、陰に陽に編纂にかかわり、持統天皇を含めた3人でもって『日本書紀』のベースがつくられていきます。

ここからが本題です。

持統天皇の父でもあり、藤原不比等の父「鎌足」を片腕として重用した第38代「天智天皇」をふくめてもいいのですが、彼らは、『日本書紀』編纂の発案者であり、持統天皇の夫でもある第40代「天武天皇」の皇統を、歴史的に正統化し“神聖不可侵”な天皇の地位を定めることを目的としました。

なぜなら、日本国内に混乱を招く“皇位争い”を二度と起こさないようにし、「千年の大計」をもって安定をはかることが、天武天皇の遺志でもあったからです。

それゆえ、藤原不比等は、天皇の“みしるし”に八尺瓊勾玉(やさかにの まがたま)を加えて「三種の神器」とし、『日本書紀』の神代の一書ながら「天孫降臨」に“三種の神器”の相続神話を創作することで、万世一系の皇統は歴史以前の神代から定まった絶対的で不変なものとして、それまでの“二種の神器”以上に、“みしるし”を強固なものとします。

では、そのような意図をもった『日本書紀』は、どのようにすれば、過去の記録を取捨選択し、うまく皇統をつなげて、「万世一系」となるように歴史を編纂していけるのでしょうか。

この視点がもっとも重要な「古代史の秘密を解く」第一のカギになります。

具体例は、後日お届けする予定です。

ここでは、当時の歴史の解説をしておきます。

うがった見方をされる方は、天武こと大海人皇子が、天智天皇の大友皇子(追諡:第39代「弘文天皇」)から、「壬申の乱」によって皇位を簒奪したとみます。

しかし、真相は、ほぼ『日本書紀』どおりで、大友皇子(弘文天皇)側が自らの政権を確固とするために、大海人皇子を亡き者にしようとしたものです。

なぜなら、天智・大友が、もし正統な天皇(大王)の血統であれば、すでに皇位に就いていますし、吉野に出家し隠棲していた大海人皇子をわざわざ殺す必要はありません。
なぜ殺そうとしたのかというと、実は大海人皇子のほうが歴史的に「正統」だったからです。
大友皇子(弘文天皇)側は、そこに一抹の不安を抱えていたといえます。

それはともかく、天武天皇(大海人皇子)こそが正統の立場にあったために、自らの正統性を歴史的に証明すべく、『古事記』や『日本書紀』の編纂を容易に発案することができました。

一方、天智こと“中大兄”は、蘇我氏をはじめ、自らのライバルの皇子たちを次々と殺しています。
要は、権力亡者の側面をもち、その血が大友皇子(弘文天皇)にも流れていたわけです。

逆に、大海人皇子は正統で育ちが良く、権力に執着せずに天文(占い)に興味をもつタイプなので、中大兄もさほど警戒せず、むしろ娘たちを嫁がせて“仲良く”していますし、中大兄が皇位(大王)に就くことに賛成はしても反対はせず先に皇位をゆずったわけです。

そういった人の好さは、元祖日本人(海人族)の血を引く天武の血統の特徴で、一方の天智の血統はどこか凄まじさをもちます。
もっとも、藤原氏が台頭した平安時代は、天智の血統はカタチばかりの天皇に骨抜きにされます。
そんな“天皇”に天運など働くはずもなく、結果、平家から源氏へと武家政権が誕生していきます。


※注) 『日本書紀』では、天智(中大兄)と天武(大海人皇子)は兄弟として記されています。そうしなければ「万世一系」にならないためです。しかし史実は、“義理の兄弟”だとしても、両親を同じとする実の兄弟ではなく、赤の他人ではないにしても、天智(中大兄)のほうが、いわゆる父親違いの連れ子でした。









古代史の秘密を解くカギ1
2017.07.17
古代を解くカギは、案外と『日本書紀』に隠されています。

ただし、『日本書紀』の内容を100%事実だととらえると、とんでもない大間違いをします。
ですが、まがりなりにも日本の古代史を通貫して記録している“史書”は、『日本書紀』しかありません。

そのため、されど『日本書紀』なのです。

要は、数々の記述のなかから、どれが史実なのか、どれが作り話なのか、それを知るには、次の3つの“カギ”を差し込めば、案外とカンタンに事実がみえてきます。

1、『日本書紀』編纂の立場

2、『古事記』

3、一連の「日本伝」

ここで“一連の「日本伝」”というのは、次のようなものです。

通称「魏志倭人伝」とよばれている『三国志』の“倭人条”をはじめ、『宋書』また『隋書』また『旧唐書』の“倭国伝”や“日本伝”などをまとめて、ここでは「日本伝」と呼んでいます。

ただ、その記述も、結局は大陸の政治状況に付随したものなので、日本に関する記述が全部が正しいと信じて鵜のみにすることは、これまた別の意味で間違います。

次に、同じ時代に奏上された歴史書でありながら、『古事記』と『日本書紀』の内容に違いがあるということは重要です。

両書の違いを、一般に学者は文体が異なることから、『古事記』は国内向けに記されたもので、『日本書紀』は唐(シナ:China)など海外に向けて記されたものという説明をされますが、そこにとどまっていると歴史の事実はみえてきません。

重要なことは、同じ日本の古代史でありながら、内容が大きく異なる部分があることです。
そこに歴史の事実を解くもう一つのカギがあります。

そして、もっとも大きなカギは、「だれ」がどのような「立場」で、どんな「意図」をもって、古事記と異なる『日本書紀』を編纂したのかということです。

むずかしく考える必要はありません。

よく“木を見て森を見ず”といわれることがありますが、先に枝葉末節の解明にこだわると、全体像がみえてきません。

まずは、3つのカギでもって『日本書紀』の“隠された扉”を開けてから、細部をみていけばいいわけです。
すると、案外とカンタンに古代史の事実が見えてきます。

次回から、ひとつずつ3つのカギでもって“古代史の扉”を開けて、事実を解き明かしてまいります。




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