「聖徳太子」は創作された 1
2017.04.13
かつて教科書で、「聖徳太子」とされ、これまでは「厩戸皇子(聖徳太子)」と改められ、今度ふたたび「聖徳太子」として教えられる人物は、ほんとうに実在したのでしょうか。

聖徳太子は、ご存じのように“厩戸皇子”だと考えられていて、また上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみやの うまやどの とよとみみの ひつぎのみこ)としても『日本書紀』に記されています。


では、次のような人物は、ほんとうに実在するのでしょうか。

1、生まれてすぐに言葉をしゃべった。
2、1度に10人の話を聞いても間違えなかった。
3、(誤まらず)先のことまですべて見通した。
4、仏法と儒教の経典をことごとく極めた。
5、19歳で今でいう“総理大臣”になった。

マンガなどならともかく、実際にはありえません。


●参考『日本書紀』原文
生而能言 有聖智 及壯 一聞十人訴以勿失能辨 兼知未然
且習內教於高麗僧慧慈 學外典於博士覺哿 並悉達矣。


実在の天皇紀において、このように「ありえない」ことを『日本書紀』が記すとき、歴史書であると同時にプロパガンダの書でもある性質上、そこにはなんらかの“メッセージ”が込められています。

記事によって異なりますが、共通していえるのは、“事実ではないよ”と訴えていることです。

さらにいえば、この箇所は、理由があって日本書紀に正直には書けないから、“よく考えて真相を知ってね”という意図が込められています。

結局、推古天皇が、その元年に厩戸皇子(19歳)を皇太子に立てて、「国政のすべてを任せられた」という記述は、有能な蘇我馬子が大臣(おおおみ)としても実在する以上、事実ではありえません。

考えてもみてください。

推古が即位してすぐに国政のすべてを皇太子に任せるなら、推古女帝は「いなかった」(傀儡)と書いているのと同じです。

もちろん19歳で国政のすべてを担った“厩戸皇子”こと「聖徳太子」もいません。

なので、実質上、国政をつかさどっていたのは、蘇我馬子大王(天皇)です。
ですが、このことは、どうしても『日本書紀』には記せせない事情があるのです。



「邪馬台国」の誤解5
2017.03.10
●宝瓶宮占星学サイトに連載した「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていくシリーズで、今回は「邪馬台国編-その5」です。


「邪馬台国」から少し脱線しますが、卑弥呼について触れておきます。

卑弥呼もまた「魏志倭人伝」がもたらした大いなる幻想の一つです。

2~3世紀の当時の日本を記した文献が、「魏志倭人伝」しかないのでしかたないのですが、卑弥呼を共立することによって平和が訪れ、また日本人好みの“鬼道”といった衆を惑わす術を使ったこともあって、どこか神秘めいて“英雄”かのように思われています。

違います。

“鬼道”というのは、今でいう「いたこ」と同じです。
要は、死者の霊を自分の体に憑りつかせて、霊言を語る怪しげな自称“霊能者”や“霊媒者”と同じです。

古代には、そういったたぐいの、いわゆる「いたこ」がたくさんいました。
当時、卑弥呼ひとりが“鬼道”につかえていたわけではなく、『日本書紀』を読めば、“神がかり”による託宣のお話は、案外と多く出てきます。

さらにいえば、「卑弥呼=天照大神」とするのも間違いです。

『日本書紀』の性格(編集方針)からして、中国の冊封下にあった「邪馬台国」や、“親魏倭王”の金印を仮授された「卑弥呼」は、ぜったいに出てきません。

なぜなら、独立日本としての「統一大和」が保たれないためです。
この点からも、邪馬台国=畿内国(のちの大和)とするのは、7世紀の大和朝廷は“中国の冊封下”の延長線上にあると主張するのと同じで、明らかに間違いです。

冊封下だった「倭国」は、7世紀初頭に、弟国の「日本」に国をゆずっています。
また、7世紀後半の天武天皇は、「天皇」と号することによって、中国の「皇帝」よりも天神に近い立場に日本国(王)を位置づけました。

結局のところ、「邪馬台国」というのは、北部九州のごく一部にすぎず、女王や天皇を象徴とする和の統治形態は残ったものの、往時の邪馬台国そのものは、卑弥呼の代をもって終わり、男王の傀儡「台与」を立てた政権へと移っています。



「邪馬台国」の誤解4
2017.03.09
●宝瓶宮占星学サイトに連載した「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていくシリーズで、今回は「邪馬台国編-その4」です。


多くの日本人のなかに古代史における一つの“誤解”があります。

それは、7世紀の統一大和にいたるまで日本はずっと一つの歴史を営んできたという思いです。

江戸時代とくには明治以降は、『日本書紀』や「万世一系」といった歴史観が、なかば強制的に学校教育や社会マスコミの風潮となりましたので、だれもがそのように無意識のうちに思い込んでいます。

つまり、日本は当初から一つの国だったという“刷り込み”です。

それが100%間違いだとはいいません。
日本という国の精神史からみれば、『日本書紀』に流れるバックボーンは、卑弥呼の時代にもつうじ、和を重んじた一つの国を志向していたことに間違いはないからです。

しかし、実際の歴史をみていくと、最後は一つの国に収斂されていく“国体”をもつとはいえ、そのプロセスにおいては、ずっと古代日本が一つの歴史であったとはいえない事実があります。

要は、日本は当初から一つの国だったという“観念”があるために、7世紀の統一大和の源流は2~3世紀の卑弥呼の「倭国」(女王の都「邪馬台国」)しかないと思い込んでいるのです。

そのため、古代の環濠集落跡や宮殿跡または楼観跡など、「魏志倭人伝」に記された可能性のある遺構がみつかると、すぐ「邪馬台国か」とマスコミをはじめ歴史学者の一部や歴史マニアが騒ぎ立てます。

違うのです。

当時、日本にあった卑弥呼の「倭国」(女王の都「邪馬台国」)は、ワン・オブ・ゼムにすぎません。
たとえば「魏志倭人伝」をみても、卑弥呼の「倭国」と争う「狗奴国」という国があったことが記されていますし、海をへだてた東には、同じ「倭種」とよばれた人々がいて、名称は不明ながらいくつかの“国々”が営まれていたことは当然です。

このことがわかると、畿内国(のちの大和)に宮殿跡や前方後円墳などが残るとしても、それが卑弥呼の「邪馬台国」だったということにはなりません。

実際にも、ほかの“国”だったことがわかります。

※ただし、のちには九州(倭国)勢力が大和にも移動しています。




「邪馬台国」の誤解3
2017.03.08
●宝瓶宮占星学サイトに連載した「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていくシリーズで、今回は「邪馬台国編-その3」です。


さて、先回、名称は「邪馬台国」で間違いがないことを確認いたしました。

その邪馬台国がどこにあったのかは、当時2~3世紀の日本のインフラ状況を考えれば、簡単にみえきます。
要は、交通手段また連絡をはじめとした統治可能範囲の問題です。

どこの国でも、常識ですが国内に道路や橋が整備されるのは、国家が統一されて平和になってからです。
国内で争っているかつての状況下では、道路を整備したり、橋をかけると、ほかの国々からたやすく攻められてしまいます。

たとえば、家康によって日本が統一された江戸時代にあっても、西国から江戸を守るために静岡の大井川には橋をかけませんでした。

また、五街道も現代のように舗装されていないのはもちろんのこと、藩と藩をつなぐ今に残る古道などをみても、一人がとおれるほどのいわゆる「山道」が多かったのも事実です。

ましてや、人口も少なく、獣も多かった邪馬台国の時代に、大軍がとおれるような整備された道はもちろんのこと、道路はないに等しく、せいぜい村落の中にのみ「道」とよべる道ができていた程度です。

そういった事情から、当時の交通手段は、天候まかせ、また風や潮まかせの海そして河川でした。
要は、帆掛け舟がなくはなかったのですが、大半が手漕ぎの船(舟)です。

では、そのような2~3世紀の邪馬台国の時代に、どれだけの兵隊がいれば、どれだけの範囲を支配下におけるでしょうか。

たとえば、畿内国(のちの大和)に、どれだけの兵隊がいれば、東日本はともかくとして、西日本の要衝の国々を支配下におくことができたのか、というお話です。

各地を治めるには、兵の常駐支配か、江戸時代のように「代官所」があって、ことあれば直ちに畿内に連絡がいき、兵を動員して不穏な動きや反乱を治めなければ統治することはできません。

それだけの兵員と動員力また食料や武器などの兵站はもちろん、輸送力や交通手段や連絡手段が、どの範囲に効力を発するまで万全に整っていたのかということです。

それができなければ、「魏」との窓口とされた「伊都国」など北部九州はもちろん、「吉備国」をはじめとした瀬戸内海両岸の国々を治めることができません。

いかがでしょうか。

考えるまでもありません。答えは決まっています。
当時の状況下では、人も多くない畿内国(のちの大和)が、そのように北部九州までも支配下におくことは無理です。

であれば、女王・卑弥呼の「倭国連合」の範囲と位置はみえてきます。

現代人の地理感覚や交通運搬などのインフラによって無条件に考えると、邪馬台国は、九州のはるか南の海の中にあったなどと言い出しますので、あくまでも当時の状況下で考えなければなりません。




「邪馬台国」の誤解2
2017.03.07
●宝瓶宮占星学サイトに連載した「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていくシリーズで、今回は「邪馬台国編-その2」です。


まず、根本問題に触れておきます。

「邪馬台国」か、「邪馬壱国」なのか、という問題です。

俗称「魏志倭人伝」には、たしかに女王が都するところ「邪馬壱国」(壱:原書は「壹」)と記されています。
なので、「やまい(ち)こく」です。

しかし、すこしややこしいのですが、「魏志倭人伝」のあとに書かれた『後漢書』は、魏志倭人伝の『三国志』の前の時代を記した正史ですが、その「倭」伝には、ちゃんと「邪馬台国」(台:原書は「臺」)と書かれています。
なので、「やまたいこく」に修正されています。

要は、当時の中国人は、陳寿が「魏志倭人伝」に記した「邪馬壱国」という国名表記を信じていないわけで、改めて「邪馬台国」と書き直しているわけです。

実際、陳寿が「魏志倭人伝」を書くために参考にした文献も、「邪馬台国」になっていました。
それを陳寿は勝手に、身びいきから「邪馬壱国」と書き換えたわけです。

古代史研究家の古田武彦氏の著書『「邪馬台国」はなかった』という題名も、陳寿の記録は「邪馬壱国」になっているということを言いたかったようですが、出版社(編集者)が「売る」ために、あえて誤解されるセンセーショナルなタイトルをつけたというお話です。

二流、三流の編集者は“タイトルマッチ”などといって、そういった“サギ”まがいのことを「陰謀論好きな人」、「都市伝説好きな人」、要は「信じやすい人」に向けて、売らんかなの商売のために行なうことがあります。
注意が必要です。

なので結論として、陳寿の魏志倭人伝はたしかに「邪馬壱国」と記されていますが、それは陳寿が意図的に「台」(臺:うてな)の字を東夷(東の野蛮人の意)の「倭国」に使うことを避けただけで、実際には「邪馬台国」だったわけです。

ただし、陳寿が浅はかなのは、「台」(臺:うてな)というは「皇帝」そのものではなく、その配下の府(役所)などを意味しますので、「邪馬台国」と書いても、ちゃんと皇帝の属下という意味になります。
なので中国人の尊大な意図からみても、「邪馬台国」でよいのです。

※「参考:「邪馬台国」と「邪馬壱国」」に書いたものを今回は要約しました。


「邪馬台国」の誤解1
2017.03.06
●宝瓶宮占星学サイトに連載した「占星学と解く日本成立史」また「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていくシリーズです。


今回は「邪馬台国」シリーズです。

多分、多くの人が誤解していることが、ここにあります。

それは、日本(統一大和)のはじまりが「邪馬台国」にあるというお話です。

中国の歴史書、そこに残るもっとも古い「日本」に関する記述が、卑弥呼の「邪馬台国」、いわゆる「倭国」(わこく=女王国)であるために、日本のはじまり(原点)が「邪馬台国」だったと思い込んでいるのです。

間違いです。

あくまでも、中国の「魏志倭人伝」に日本に関する最初の記述である卑弥呼の「邪馬台国」の記録が残ってるというだけであって、それが実際に日本の最初の“国家”だったという証拠には、けっしてなりません。

「魏志倭人伝」は、正式には『三国志』の中の「魏書」第30巻「烏丸鮮卑東夷伝」の最後に記される「倭人」条のことなのはご存じのとおりです。

それが日本に関する、もっとも古い記述であるために、日本のはじまりは「邪馬台国」だと勘違いしているのです。

記録に残っているから、それが最も古いわけではありません。
まして、中国の記録に残っていない古い日本の歴史もありますので、当然、日本にも「邪馬台国」以前に、各地方に数々の歴史がありました。

国譲りをしたとされる大国主神の国もその一つで、「邪馬台国」の歴史がもっとも古い日本の姿とはかぎりません。

このことが考古学からも理解できると、日本の原点が「邪馬台国」ではなかったことが明確に見えてきます。

つまり、いくら原初統一大和のはじまりとされる“前方後円墳”が発見されようと、それは「邪馬台国」とイコールにはならないということが理解できます。

多くの人が誤解しているお話がここにあります。

次回から、このような「邪馬台国」について述べてまいります。


「三種の神器」記載は偽書
2017.01.20
●宝瓶宮占星学サイトの連載「占星学と解く日本成立史」と「占星学から解く日本の原点」に書いていない「小ネタ」を随時アップしていく第12弾です。


「三種の神器」というのは、『日本書紀』以前の史実は「二種の神器」だったことからみえてくる「古伝」のお話です。

ちまたでは、『古事記』や『日本書紀』以前に、「古史古伝」があったという人々がいます。
ちなみに、「古史古伝」の主なものは次のとおりです。

◆古史4書
1、竹内文書
2、物部文書
3、九鬼文書
4、宮下文書

◆古伝4書
1、ホツマツタヱ(秀真伝)
2、ウエツフミ(大友文書)
3、ミカサフミ
4、カタカムナ
※上3書は「ヲシテ文献」

これらは、「超古代文明」について記録されており、太古のむかしからある「神代文字」で記されたとされています。
全部ではありませんが、いくつか部分的にみてみたことがあります。

たとえば、「ヲシテ文字」で記されているとする「ホツマツタヱ」などもそうですが、だいたいは「三種の神器」がでてきます。
その時点でもう読むのをやめざるをえません。

なぜなら、「三種の神器」シリーズをお読みの方なら、ご納得されるされないは別にして、『古事記』や『日本書紀』以前からある「古伝」だということが、ウソだとわかるからです。

調べてみますと、江戸時代中期あたりのいわゆる「古代史創作ブーム」のときに創られた「偽書」というのが定説のようです。
仮に、さかのぼっても平安時代以前ではありえません。

なぜなら、「三種の神器」はもちろん「神武天皇」や「景行天皇」などは、『日本書紀』が万世一系の「天皇」の正統性をメッセージするために「創作」されたものなので、そのような内容が“古伝”に出てくるということは、結局、知らないうちに、いわゆる『日本書紀』史観をベースにしたまがいものの“超古代文明史”の記述でしかないためです。

時代矛盾がそこに生じていることはご賢察のとおりです。
なので、「二種の神器」が記載された「古史古伝」であれば、まだ正統性が残りますが、8世紀に奏上された『日本書紀』の創作「三種の神器」が記載された「古史古伝」は、『日本書紀』以降に記されたか、または加筆された「偽書」ということになります。


※「三種の神器」の項、終わり。

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