“逆説”の邪馬台国-4
2020.09.12
 
【「里程」と「日程」問題】


「邪馬台国」の所在論争は、「魏志倭人伝」の問題です。

作者 陳寿が“行程記録”を正しく記せなかったためです。

もしくは、よく理解できないまま「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)を著したためです。

どういうことか。


もし、陳寿が「邪馬台国」への行程を正しく理解し、正確に記していれば、今日のような“邪馬台国所在論争”は起きることはありませんでした。


陳寿は、「倭国」を訪れたことがありません。

そのため、すでにあった魚豢(ぎょかん)の『魏略』(ぎりゃく)を参考にしました。

また、いにしえの「奴国」や3世紀の「倭国」から魏に行った使者の記録も参考にしたでしょう。

さらには、当然、魏王の命を受け、倭国を訪れた帯方郡の郡使の記録を元に、「魏志倭人伝」を著したのです。

もっとも、陳寿が行程を正確に記せなかったことを、次のように“反論”されるかたもいるでしょう。

「いやいやそうではない。陳寿が参考にした“行程記録”そのものが不正確だったのだ」と。

そうでしょうか。


たしかに、パーフェクトではないのは事実ですが、「魏志倭人伝」を読むかぎり、“当たらずとも遠からず”の記述を陳寿は、部分的に記しています。

なので、“行程記録”そのものが間違っていたわけではありません。

間違えたのは、明らかに陳寿のほうです。

では、実際はどうなのか、みてみましょう。


1、郡使は「伊都国」に駐まる

「魏志倭人伝」には、次の一文があります。


● 「魏志倭人伝」より抜粋(1)

「伊都国に到る。(中略) 郡使往来するとき、常に駐(とど)まるところなり。」


すでに指摘されていることですが、伊都国(いとこく)に“至る”ではなく、「到る」という字がもちいられていることは“到着”を意味するために、郡使は「伊都国」までしかきていません。

伊都国には「一大卒」が置かれ、“女王国連合”約30諸国を“検察”していたことが「魏志倭人伝」に記されています。

「常に伊都国に治す」と記されていることから、郡使は、わざわざ危険を冒してまで諸国に行かなくても、伊都国で用が足りたのです。

当然、「常に駐(とど)まるところなり」と、駐車場の“駐”が使われていることも、郡使は伊都国に滞在していたことがわかります。


では、このことは何を意味するのでしょうか。

簡単です。

郡使が出発した「帯方郡」から、半島南端(倭の北岸)を経て、「伊都国」に到るまでの行程(里程)は、倭国を訪れた郡使ら自らが体験した比較的に正確な記録です。

なので、大きく間違うことはありません。

さらには「伊都国」と地続きの「奴国」(なこく)や隣の「不弥国」(ふみこく)までは平野部にあり近いことから、記された“里程”や“方角”に大きな間違いはないといえます。

つまり、「不弥国」までの行程は丸めた数字ながらほぼほぼ合っていますので、場所の比定は比較的、簡単にできるのです、


2、軍事偵察

次に、陳寿の間違いについて述べます。

現在の平和な時代の視点から、「魏志倭人伝」を解釈すると間違います。

たとえば、「南は東の間違いだ」とする強弁は、愚の骨頂です。

なぜなら、魏(帯方郡)の郡使は、“物見遊山”や“観光旅行”で「倭国」を訪れたわけではありません。

呉や蜀などと戦争中だった魏は、“軍事偵察”をかねて倭国を訪れました。

南方の「呉」、西方の「蜀」の二方面で熾烈な戦いを繰り広げていた「魏」は、東方の半島はもちろん、海を隔てているとはいえ、「倭」を味方につけておくことは、三方面の戦いを避けるためにも戦略的に最重要課題でした。

そのため魏王は、“東夷”の国でありながら、女王卑弥呼に「親魏倭王」の金印を仮授したのです。

平和ボケすると、このあたりの事情が見えなくなります。

魏の郡使は、万が一のことを考えて、「地理」や「方角」や「里程」の軍事専門家を随伴していたのは、常識中の常識です。


それゆえ、「魏志倭人伝」には、行程はもちろん、倭国の山海や風習また産物などが詳しく記されています。

すべて、倭国と戦さになったときのためなのです。

つまり、随伴した軍事専門家が「方角」や「里程」を大きく間違えて報告することはありえません。

もし、間違えるレベルであれば、古来より戦乱が続く大陸では、“笑いもの”にされるか、“戦さ”にならないばかりか、最悪は敗北し、国を滅ぼすことになってしまいます。

そのような事由から、郡使が駐(とど)まった「伊都国」また近隣の「不弥国」までの“里程”や“方角”は相応に正しく、信用できるのです。

問題は、伊都国から離れた、「投馬国」(つまこく)や「邪馬台国」さらにその南にあった旁余の諸国です。


3、陳寿は複数の記録をつなげた

問題は、実際には郡使が訪れなかった「不弥国」に続く次の行程です。


● 「魏志倭人伝」より抜粋(2)

「南して投馬国に至る、水行20日なり。(中略) 南して邪馬台国に至る、女王の都する所なり、水行10日、陸行1月」


最も重要な部分です。

解釈に課題が生じるポイントとなる部分がここなのです。

もし、この記述を「不弥国」に続くものだとすれば、「邪馬台国」はとんでもない位置になります。

ここがミスだとわかるのは、「不弥国」の南に水行20日などできる海や河川はありません。

陳寿の記述の“誤り”がここにあります。

それゆえ解釈が大きく分かれ、「邪馬台国所在論争」の最大要因になっています。


では、ヒントを書きましょう。

陳寿は、複数の記録を参考にして「魏志倭人伝」を著しました。

郡使は「伊都国」までしか来ていません。

にもかかわらず、「伊都国」と地続きの「奴国」や「不弥国」はともかく、別の記録から「投馬国」(つまこく)と「邪馬台国」への行程を、不弥国に続けて記してしまったことが、陳寿のミスです。

なぜなら、不弥国までの行程は「里程」です。

ところが、投馬国と邪馬台国への行程は「日程」です。

このような“ダブル・スタンダード”の表記は、郡使に随伴した軍事専門家は行ないません。


もし、行なったのであれば、まず帯方郡を出発してからの「里程」と「方角」を記しておいて、そのうえで再度、帯方郡からの「日程」を記し、万全を期したといえなくもありません。

にもかかわらず、陳寿は、不弥国までの「里程」に続けて、ことわり書きもなく、南に投馬国までの「日程」を水行20日のと記し、邪馬台国までの「日程」を水行10日、陸行1月と記したのです。

ドラマ的に書きたがる陳寿の最大のミスです。

「里程」と「日程」は、並列表記、もしくは別の「行程記録」を陳寿がかってにつなげたものだとわかれば、ことは簡単です。


4、「投馬国」と「邪馬台国」の比定

結局、帯方郡から水行のみ20日でいける海に面した国が「投馬国」です。

一方、水行10日で沿岸に着き、そこから当時の交通で陸行1月がかかる内陸部の国が「邪馬台国」です。

ここまで明かせば、「魏志倭人伝」などから邪馬台国の所在を試みておられるかたは、かなり絞り込むことができるでしょう。

もちろん、皆さまがご自由に比定されてかまいません。

私見は述べず、ここではヒントのみ書いておきます。


A) 邪馬台国は河川の上流域

当時の交通は船が主役です。

道路は国防を考えてのこともあって充分に整備されてはおらず、海や河川がメインの交通網でした。

「邪馬台国」が陸行1月の内陸部に位置するというのは、遡行しやすい河川の上流域に位置していたことを意味します。

河口や下流域は津波や洪水などの水害はもちろん、上流の国から攻められやすいためです。

古く由緒ある国ほど、早い者勝ちで広い平野部をそなえた河川の上流域に国(都)をつくりました。


中国も例外ではありません。

長安(西安)は、黄河の上流にある支流「渭河」の上流の広大な盆地に築かれた都です。

洛陽は、山を隔てた黄河の上流に隣接し、支流の「洛河」のほとりに築かれた都です。

日本の場合、のちの平城京や平安京も河川の上流域の盆地に築かれた都でした。


B)南に旁余の21か国と狗奴国

「魏志倭人伝」によれば、邪馬台国の南に「女王国グループ」に属する21か国の旁余の諸国があったと記されています。

邪馬台国を比定するさいは、南に21か国が存在できる地がなければなりません。

当時の国邑(こくゆう)ゆえに、現在の県を超えるほどの広さはありませんが、21か国が河川などを通して相応に隣接する規模であることが条件です。


さらに、その南には女王国連合と敵対する「狗奴国」があったと「魏志倭人伝」には記されています。

女王国の境界がつきる旁余の諸国の21か国の南に、さらに相応の国力をもった「狗奴国」(くなこく)が存在したのです。

つまり、狗奴国は「女王国連合」に相応に匹敵する平野部を抱えていた国でした。


上述いたしましたように、陳寿は解釈を間違えましたが、理由もなく間違えることはありません。

「奴国」や「不弥国」の南方に「邪馬台国」があったために、「帯方軍」からの「南」と気づかずに、「不弥国」に続けて著してしまいました。

結局、「邪馬台国」の南に女王国に属する「旁余の21か国」があり、さらにその南に、相応の規模を有した「狗奴国」が存在できる、河川上流域にある内陸部が女王卑弥呼の「邪馬台国」です。


ほかにも、比定に役立つ記述はありますが、長くなりましたので、今回はここまでです。










日向坂46 濱岸ひより(17)
2020.09.11
 
日向坂46のメンバーの「ソーラー・チャート」の特徴をご紹介するシリーズです。

当シリーズでは、18人めです。

かってにグルーピングしてお届けしています「アクセントキャラ・グループ」では、3人めのご紹介になります。

今回は、「濱岸ひより」(天秤宮、17歳)2期生です。

約半月ほどのちの今月9月28日で18歳になります。

1期生と2期生をここまでご紹介してきましたが、本日現在16歳の3期生のメンバーがまだ4名もいるミレニアム世代が多いグループが「日向坂46」です。

当シリーズは、「宝瓶宮占星学」サイトの「「日向坂46」への改名/独立」(リーディングサンプル&メモ)のつづきで、各メンバーの占星学的な特徴をご紹介する“下書き”といえるものになっています。

「出生時間」が不明なため、全員「ソーラー・チャート」でお届けしています。

「ソーラー・チャート」は、西洋占星術の本場の一つイギリスでもメインで用いられているホロスコープです。

ただし、出生時の「太陽」をASC(Ascendant アセンダント=上昇点)の位置におくことは同じでも、当シリーズでは出生時間が不明なことから「イコール・ハウスシステム」でお届けしています。

詳しいご説明は、ここでは省きますが、「ソーラー・チャート」の場合、「12サイン(宮)」を均等に30度ずつに等分したイコール・ハウスシステムのほうが、むしろ「理」にかなっています。


さて、「濱岸ひより」の「ソーラー・チャート」は、次のとおりです。




これまでご紹介してきたメンバーはもちろん、同じ「アクセント・キャラ」グループのメンバーと比較しても、「濱岸ひより」(天秤宮、17歳)の「ソーラー・チャート」の特徴は、ほかとは異なります。

それゆえ、“アクセント・キャラ”になります。

これまでは、たとえば、星たちが1か所に集中する三重合(トリプル・コンジャンクション=0・0・0度)や連続合(ローリング・コンジャンクション=0/0度)をもつメンバーだったり、または1つのサイン(宮)に4つ以上の星が位置する大会合(ステリウム)をもっていたりしました。

さらには、半球側にすべての星が集まる“ボウル型”の「ソーラー・チャート」をもつメンバーも複数ご紹介してきたのはご存じだと思います。

これらのメンバーの多くは、相応に“瞬発力”や“集中力”をもつことになります。


ところが、濱岸ひよりのソーラーチャートは、それらとは異なるのです。

上掲の「ソーラー・チャート」をご高覧いただけましたら、おわかりのとおりです。

星がホロスコープ全体に分散しています。

“スプラッシュ型”といってもいいのですが、いくつか星が集中する部分がなくはないので、“スプレー型”ともいえるホロスコープになっています。

ですが、よくよく見ると、濱岸ひよりの「ソーラーチャート」には、次のような特徴があります。


1、大六角(60度×6)

まず、天秤宮の「太陽&水星」のジャストの合(コンジャンクション=0度)をメインに「大三角」(グランド・トライン=120度×3)があります。

「太陽&水星」と「海王星」と「ドラゴン・ヘッド」(&「月」の合:0度)がそれです。

もう一つ、射手宮の「冥王星&ドラゴン・テール」の合(0度)をメインとする「大三角」(120度×3)もあります。

「冥王星&ドラゴン・テール」と「ケレス」と「木星」がそれです。

これら2つの大三角(120度×3)が、「ダビデの星」のマークのように、対象的に重なっていて、大三角凧(トライン・カイト=60・60・120・120)をお互いに形成する形になっています。

つまるところ、六分(セクスタイル=60度)が6つ連続した「大六角」(グランド・セクスタイル=60度×6)を形成していることが、濱岸ひよりの「ソーラー・チャート」の最大の特徴です。


2、共鳴星の「金星」

もう一つの特徴があります。

濱岸は「天秤宮生まれ」(太陽)なので、「金星」を共鳴星(象徴星)とします。

上述の大六角(60度×6)には含まれませんが、「金星」が重要な位置をしめる星になっています。

それは次の2点からです。


1) YOD(ヨッド=60・150・150)の頂点。

蠍宮の「金星」を頂点に、牡羊宮の「ケレス」と双子宮の「ドラゴン・ヘッド」を底辺の星とするYOD(ヨッド=60・150・150)がそれです。

「ドラゴン・ヘッド」には「月」が合(0度)で、もし午前11時頃までの生まれであれば、「月」もまた底辺の星を形成することになります。


2) T矩(90・90・180)の軸

さらには、「金星」を軸に、「木星」と「海王星」の衝(180度)とがT矩(Tスクエア=90・90・180)を形成しています。


これらのことは、「天秤宮生まれ」(太陽)の濱岸ひよりにとって、特徴とならざるをえません。

なぜなら、「月」をふくめてもいいのですが、「金星」や「木星」や「海王星」がもつ象意の特徴は、どちらかというと“シビア”な現実面を象わす星たちではなく、どこか地に足が付かない“形而上的”な“フワフワ”した“ソフト”な象意をもつ星たちだからです。

それらの星たちが、濱岸にとって「共鳴星」(象徴星)の「金星」を“頂点”や“軸”にしたアスペクト・パターンを形成しているためです。

ちなみに、YOD(60・150・150)の底辺の「ケレス」や「ドラゴン・ヘッド」にしても類似です。

現実的に強い影響力をもつ星たちではなく、これらの“形而上的”だったり“心理的”な象意の星たちが「金星」を中心にYOD(60・150・150)やT矩(90・90・180)を形成しているために、そこには特徴が生まれます。

ホロスコープ(出生天球図)の特徴を見抜くことが、ホロスコープ・リーディングにとって重要なのは、その人にしかない個性(キャラ)や運勢がその特徴によって象わされることが多いためです。

そのため、濱岸は案外と“シャイ”や“センシティブ”または“ハートフル”ともいえる“敏感”な一面をもつことになります。












“逆説”の邪馬台国-3
2020.09.10
 
【「邪馬壱国」と「邪馬台国」】

かつて、『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)という書籍が発刊されました。

編集者がつけたタイトルらしいのですが、「邪馬台国」(やまたい こく)ではなく、「邪馬壱国」(やまい こく)があったという論旨のようです。

つまり、「臺」(台)ではなく、「壹」(壱)が正しいと。

先回の「“逆説”の邪馬台国-2」でご紹介しました陳寿は、「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)に、「邪馬壹国」(壱)また「壹與」(壱与)と記しています。

だとすれば、正しいのでしょうか?

ちなみに、この「壱与」(いよ)を根拠の一つとして、四国は古来「伊予」と呼んだことから、「邪馬台国 四国説」を唱える方もいるほどです。

にもかかわらず、古来より「邪馬台国」や「台与」と呼称されてきています。

専門家や研究者が、「魏志倭人伝」に“邪馬壱国”や“壱与”と記されていることを知らないはずはありません。


今回は、「宝瓶宮占星学」サイトでも触れた内容ですが、なぜ“邪馬壱国”ではなく、「邪馬台国」と呼ばれつづけてきたのか。

「魏志倭人伝」以外の古代文献からみてみたいと存じます。



1、陳寿は日本にきたことがない。

まず、陳寿は、「倭国」に来たことがありません。

では、どのようにして「魏志倭人伝」を著したのでしょうか。

それは奴国や倭国からの使者が、「後漢」や「魏」を訪れていたからです。

また、「魏志倭人伝」に記されているように、魏王からの使者、太守の「弓遵」や建中校尉の「梯儁」らが倭国(伊都国)に来ているからです。

そういった奴国や倭国からの使者らに聞いた記録や、弓遵や梯儁らが倭国に来て視察した報告などが残されていたからです。

また、陳寿が『魏書』(倭人条)を著す前に、魚豢(ぎょかん)が残した『魏略』(ぎりゃく)がありました。

そこに倭国の都(邪馬台国)に関する記述もあったからです。

陳寿は、そういった複数の記録や資料をもとに、「魏志倭人伝」を著したのです。

それらの記録には、いったい「邪馬○国」と書かれていたのでしょうか。


2、『魏略』の逸文

これらの原本は、残念ながら散逸して残っていません。

しかし、魚豢の『魏略』の逸文(引用文)が、福岡の太宰府天満宮に残っています。

唐の時代に記された『翰苑』(かんえん)がそれです。

遣唐使の名残りなのか、現在、わが国の国宝に指定されています。


では、『翰苑』に残される『魏略』の逸文、3世紀の倭国に関する部分をみてみましょう。


●『翰苑』より抜粋(1)

1) 『魏略』の逸文

「憑山負海 鎮馬臺 以建都」

【読み】 山につき、海を負い、馬台を鎮め、以って都を建てる。


○『翰苑』自体の注釈の抜粋

「後漢書曰 (中略) 其大倭王治邦臺」

【読み】 後漢書にいわく、(中略) その大倭王は(邪馬)台で治める。


陳寿が「魏志倭人伝」を著すにあたって参考にした『魏略』には、逸文ですが卑弥呼の都を「馬臺」と記していたことがわかります。

『後漢書』においても、倭王は「邦臺」(邪馬台国)で治すと注釈がつけられています。

では、次の逸文をみてみましょう。


●『翰苑』より抜粋(2)

2) 『魏略』の逸文

「臺與幼歯方諧衆望」

【読み】台与は幼歯でまさに衆望にかなう。

○『翰苑』自体の注釈の抜粋

「名曰卑弥呼 死更立男王 國中不服 更相誅殺 復立卑弥呼宗女臺與 年十三爲王 國中遂定」

【読み】名は卑弥呼という。死してさらに男王を立てる。国中服さず。さらに相誅殺。再び卑弥呼の宗女台与を立て十三歳を王となす。国中ついに定まる。


これらの逸文からは、「馬臺」「邦臺」(邪馬台国)また「臺與」(台与)というように、明らかに「臺」(台)の字が使われています。


3、そのほかの史書

では、のちの古代支那の史書には、どのように記されているのでしょうか。


●『後漢書』より抜粋…5世紀前半

「其大倭王居邪馬臺國」

【読み】 その大倭王は邪馬台国に居す。

「後漢」は「魏」より古い前の国ながら、『後漢書』自体は、「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)が記された3世紀後半よりのち、5世紀前半に范曄(はんよう)によって記されました。


●『梁書』より抜粋…7世紀前半

「又南水行十日 陸行一月日 至邪馬臺國 即倭王所居」

【読み】 また南に水行十日陸行一月、邪馬台国に至る。すなわち倭王の居すところ。

「復立卑彌呼宗女臺與為王」

【読み】 ふたたび卑弥呼の宗女台与を王となす。


●『隋書』倭国伝より抜粋…7世紀

「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」

【読み】 都を邪靡堆(やまたい)におく。『魏志』におけるいわゆる邪馬台国なり。



以上のように、支那の正史には、「魏志倭人伝」をのぞいて、すべて「邪馬臺国」(邪馬台国)または「臺與」(台与)と記されています。

つまり、「魏志倭人伝」のほうが例外なのです。

理由は何であれ、陳寿の「魏志倭人伝」の元となった資料にも、少なくとも『魏略』には「臺」(台)と記されていました。

にもかかわらず、陳寿のみが「壹」(壱)の字に変えて、「邪馬壹国」(壱)と記したのです。


4、「臺」(台=うてな)の考察

ちなみに、『「邪馬台国」はなかった』の著者は、次のように解釈しています。

「臺」(台=うてな)は、「天子の宮殿とその直属の中央政庁」という特殊の意味を有する。

なので「邪馬」という卑字に、神聖至高の文字「臺」を用いるはずがない。

ゆえに「邪馬臺国」(台)という国名などありえない。(「邪馬壹国」(壱)があった)


本当でしょうか。


「ウィクショナリー日本語版」によれば、「臺」(台=うてな)には、“しもべ”という意味があります。

「邪馬」という卑字に、魏王の“しもべ”という意味で「臺」を用いても、支那としては「邪馬台国」(臺)という国名で、なんら問題はないといえます。

そうであれば、問題は曲筆でも知られる陳寿ご自身のようです。


ちなみに、「臺」(台=うてな)には、まわりを見渡せるように作られた高い建物、また物見台といった意味もあります。

「邪馬台国」が、川の上流域など高台にあったのかもしれません。

もしくは、「魏志倭人伝」に卑弥呼の都のようすが「楼観、城柵、厳かに設け」と記されるように、“高い物見台”(楼観)があったゆえに、「邪馬台国」という漢字があてられたのかもしれません。











日向坂46 丹生明里(19)
2020.09.09
 
テレビをはじめメディアへの露出が多い日向坂46のメンバーを「リーディング・サンプル」としてご紹介しているシリーズです。

メディアへの登場が多くても、以前の60~80年代アイドルのように、“つくられた偶像”では素の個性(キャラ)が見えないのでサンプルにはなりません。

その点、初期~全盛期までのAKB48をはじめ日向坂46は、「素の個性」(キャラ)で“勝負”できるバラエティー・センスをそなえているメンバーが多いので、宝瓶宮時代に沿っていて「運勢」がともなうグループになっています。

とくに、日向坂46は、人見知りや成長途上のメンバーでも、素の自分を出す“思い切り”のよいメンバーが多いので、勝手に「サンプリング」させていただいています。

「宝瓶宮時代」は、かつての双魚宮時代とは異なりますので、平成末期生まれやミレニアム世代で構成される「日向坂46」は、まさにピッタリなのです。


今回で、17人めとなる当シリーズは、「宝瓶宮占星学」サイトの「「日向坂46」への改名/独立」(リーディングサンプル&メモ)のつづきとなる“下書き”(草稿)です。

いくつかにグルーピングしてお届けしていますが、先回からの「アクセントキャラ・グループ」の2人めは、「丹生明里」(水瓶宮、19歳)です。

丹生明里の「ソーラー・チャート」は、次のとおりです。




すでにご紹介してきました日向坂46のメンバー数名もそうですが、丹生も“ボウル型”のホロスコープになっています。

必ず正反対の位置にくる「ドラゴン・ヘッド」または「ドラゴン・テール」をのぞくと、出生時間によって異なりますが、約180度~190度/360度の半球に星が集中しています。

丹生の場合の特徴は、“ボウル”の底にあたる位置に、魚宮の影響圏にある水瓶宮の「太陽」が位置していることです。

さらに、「太陽&水星&天王星(共鳴星)」の三重合(トリプル・コンジャンクション=0・0・0度)です。

それゆえ、「太陽」をはじめ三重合(0度)の星を軸に、「月&火星」の合(コンジャンクション=0度)と「木星」また「土星」との衝(オポジション=180度)が、強力なT矩(Tスクエア=90・90・180)を形成するホロスコープになっています。

これが、「丹生明里」(水瓶宮、19歳)の「ソーラー・チャート」の最大の特徴です。

象意的には、一見、そうは見えにくかったり、迷いを内包する側面はあるものの、強烈な“個性”を発揮するT矩(90・90・180)になっています。


もう一つ、牡羊宮の「金星」を軸に「ドラゴン・ヘッド&ドラゴン・テール」のT矩(90・90・180)があります。

かつての西洋占星術は、星を「吉星」と「凶星」にわけ、アスペクトも「吉座相」と「凶座相」にわけて、「対立二元論」の“吉凶解釈”による占断を行なってきました。

しかし、宝瓶宮占星学は違います。

宝瓶宮時代は、「共鳴関係論」の時代なので、宝瓶宮占星学では“吉凶解釈”は行ないません。

というか、もはや宝瓶宮時代生まれや、日向坂46のように平成末期やミレニアム世代の子たちに、古い西洋占星術の吉凶解釈をすると間違うことが起こります。

星に吉凶は関係なく、“個性”(キャラ)を活かす時代だからです。

※注) 宝瓶宮占星学でいう「個性(キャラ)」には、“民度”などをふくめた意味合いがありますのでご留意ください。

まして、「当たる/当たらない」の占術は、過去の遺物でしかありません。

「数理法則」に基づく星の本意(本当の象意)から、そのまま吉凶に関係なく、素直に「個性」や「才能」また「運勢」などの“共鳴リーディング”を行なう時代に入ってきています。

もちろん、どの占術を採用するかは皆さまのご自由です。

ただ、これまでサンプリングしてきた経緯からも「日向坂46」メンバーには、理論的にも実際的にもそのほうが適切だと確認できています。


上掲の丹生明里の「ソーラー・チャート」においても強力なT矩(90・90・180)は、決して“大凶”などではありません。

むしろ逆で、ほかの人にはない強烈な個性(キャラ)を、丹生明里が“内包”し発揮していくことを象わしています。

ひと言でいえば“多芸多才”です。

なぜなら、くだんのT矩(90・90・180)には、個人において重要な「太陽」と「月」はもちろん、影響力の強い星や“正反対”の象意をもつ星によって構成されているからです。

このことから、たとえていえば“ジキルとハイド”ではありませんが、丹生明里は、相応に異なる“キャラ”や“言動”をはじめ、幅広い“感性”や“才能”また“運勢”をみせる、“不思議ちゃん”的な知性や行動をとることができる“個性”(キャラ)をもつことになります。

その特徴が誰よりも顕著なのは、すべての「パーソナル・プラネット」が、T矩(90・90・180)を構成する星になっているからです。


「パーソナル・プラネット」というのは、主に“個人”を象わす星で、「太陽」「水星」「金星」「月」「火星」の5つの星です。

これに対して、“運勢”的な影響力をもたらす、木星以遠の5つの星を、宝瓶宮占星学では「ソーシャル・プラネット」と呼んでいます。

丹生明里は、パーソナル・プラネットのすべてがT矩(90・90・180)を構成する星になっていることもあって、状況に呼応して星の“個性”(象意)を多彩に表現できる可能性をもったタイプになっています。











“逆説”の邪馬台国-2
2020.09.08
 
【陳寿伝】

「陳寿」(ちんじゅ)は、信頼できる人物でしょうか。

「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)を著した「陳寿」(ちんじゅ)は、どんな人物なのか、それがみえてくれば「魏志倭人伝」の記述がどこまで信用できるのか、そのベースが見えてきます。

「陳寿」について残された記録は、『晋書』第82巻列伝52の一人として出てきます。

233年~297年に生きた陳寿ですが、『晋書』は7世紀に記されました。

「邪馬台国」に関する記述や講演などを見聞きしていると、ときおり「陳寿は正しい人物だったので『魏志倭人伝』の記述は信用できる」といっておられるかたがいらっしゃいます。

本当でしょうか。


先回の「“逆説”の邪馬台国-1」に、「邪馬台国」など古代史にご関心をもたれるかたは、“夢”(ロマン)や“事実誤認”を象わす「海王星」の象意の影響を受けた人物が多いと書きました。

ゆえに、“善意”だったり、“悪気”はないことが多いのですが、“シビア”な視点からは、にわかには首肯できない一面があります。

なぜなら、元資料には「邪馬台国」(臺)と記されていたにもかかわらず、かってに「邪馬壹国」(一、壱)と書き換えた人物だからです。

では、「陳寿伝」からみてみましょう。


1、宦官の「黄皓」におもねず

「陳寿伝」で、いちばん最初に出てくるエピソードは次のようなものです。

劉邦、関羽、張飛の義兄弟や諸葛孔明で知られる『三国志』の一国「蜀」に陳寿がいたころのお話です。


●「陳寿伝」より抜粋(1)

「ときに宦官の黄皓が権勢をほしいままにしていた。大臣らはみな意を屈して黄皓に付き従っていた。
陳寿だけは、これにおもねることはなかった。このため、しばしば官位を下げられた。」


これだけを読むと、“善意”の日本人であれば、「陳寿は正義心にあふれた人だ」と思い込んでしまいそうです。

ですが、マンガやドラマのお話ではありません。

また、陳寿は日本人でもないので、そう単純な理由からではなさそうです。

それは、陳寿の別のエピソード(記録)からみえてきます。


2、「喪」の話と、“ワイロ”の要求

●「陳寿伝」より抜粋(2)

「父の喪にあい病気になった。下女に“丸薬”をつくらせた。弔問の客がそれを目にしたために、郷里の人々に非難されることになった。」

(中略)

「また、次のようにも言われている。
丁儀兄弟は、魏で名声があった。
陳寿はその子に、“千斛の米をいただけるなら、父君のために立派な伝を作りましょう”と言った。
丁兄弟の子らは与えなかったので、伝を立てなかった。」


千斛の米というのは、日本の分量と同じかどうかは不明ですが、“千石大名”と同じで、江戸時代で換算すれば“千両”もの金額になります。

要は、一種の“ワイロ”の要求ですね。

もし、このとき陳寿が、丁兄弟の子らから千斛の米をもらっていれば、「丁儀兄弟伝」は、正しい“歴史記録”として残されたでしょうか。

現在の“広告掲載費”と同じと考えれば、“ワイロ”(掲載費)をもらいながら“悪く”書くことはむずかしいために、どこかに「曲筆」が混じると存じます。

この事実は、丁兄弟の子らが拒否したので明らかになったと考えられます。

「魏志倭人伝」がそうだとは申しませんが、陳寿が著した「伝」のなかに同じようなことはなかったといえるでしょうか。


3、“泣いて馬謖を斬る”関連

次の記述も驚きです。

『三国志』の中に、だれもが知る「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」というエピソードがあります。

「蜀」の名参謀 諸葛亮(りょう)こと「諸葛孔明」は、有能な馬謖(ばしょく)将軍を高く評価していました。

しかし、あるとき戦さで、馬謖が軍命に従わず、かってに動いたため、蜀軍は大敗をしてしまいます。

軍律違反は大罪です。

なので、軍律保持のため、孔明は泣いて馬謖を処したという故事です。

実は、このとき陳寿の父親は、馬謖の“参軍”(参謀役)をしていました。

そのため、陳寿の父もまた、連座して刑に処せられたことが記されています。

その続きが次の記述です。


●「陳寿伝」より抜粋(3)

「(亮の子)諸葛贍(しょかつ せん)も陳寿を軽んじていた。

陳寿は、亮(諸葛孔明)の伝を立て、“将軍としての計略は優れたものではなく、敵に対応できる軍才はない”と述べ、“諸葛贍は、ただ書がうまいだけで、名声がその実力を越えている”と言った。

議論する者は、このことで陳寿をそしった。」


この一文からみえてくるのは、陳寿は自分の感情で人物の評価を下すということです。

それだけなら、肉親の情として“当然”といえばそういうこともありますので、同情はできます。

ですが、自分の感情によって歴史を曲げて記すのは、もはやフィクションでしかありません。

客観的な“歴史記録”にならないからです。

これらのエピソードは、陳寿は自分の感情や利によって“筆を曲げ”たり“公私混同”して、“歴史記録”を残す人物であることがわかります。


4、『三国志』編纂

上述のようなエピソードの一方で、次のような記述もあります。


●「陳寿伝」より抜粋(4-1)

「(陳寿は)『魏呉蜀三国志』全65巻を編纂した。
当時の人々は、よく記述されており、すぐれた史官としての才能がある、と賞讃した。

夏侯湛は、時を同じくして『魏書』を書いていた。
陳寿の著作をみると、自分の書いたものを破り、書くことを止めてしまった。」


陳寿に文才があったことは事実です。

また、『三国志』は人々(庶民)にも人気があったことが記され、史実どおりかどうかはともかく、わかりやすく、“勧善懲悪”ともいえるドラマ風に仕立てるのが上手だったようです。

それが、後年のだれもが知る劇作『三国志演義』の誕生につながったといえるでしょう。


陳寿は歴史の事実を、ドラマのように“勧善懲悪”で仕立てるのがうまかったことは、次のエピソードからもわかります。

「陳寿伝」の最後に、死後のエピソードとして、俗称「魏志倭人伝」(『魏書』倭人条)が収録される『三国志』が書き写されたいきさつが記されています。


●「陳寿伝」より抜粋(4-2)

「范頵らが上表していうことには、(中略)

“陳寿は『三国志』を著しました。
その文辞には、善を勧め悪を懲らしめることが多く記され、ことの成否が明らかにされ、人民を教え導くのに有益なものです。

文章の艶麗さは、相如にはおよびませんが、しかし、内容の質直さにおいては、相如以上のものがあります。
どうか御採録を賜りますように。”

そこで、河南の尹・洛陽の令に詔がくだされ、(陳寿の)家に行って、その書(『三国志』)を書き写させた。

陳寿はまた『古国志』50篇、『益部耆旧伝』10篇を撰述し、その他の文章も今の世に伝えられている。」


で、「陳寿伝」は終わっています。

文中で“質直”というのは、飾り気がないことです。

余計な修辞(レトリック)がなく記されているという意味です。

この最後のエピソードは、「陳寿伝」の4分の1近い文字数がさかれており、“デティール”(細部)が効きすぎています。

“歴史書”がこういう饒舌な書き方をするとき、“弁明”や“ウソ”などを、のちの読者に納得させようとしていることが多いのです。

たぶん、ワケありで、上表した功績を誇示すために“盛った”可能性などがありそうです。

それまでの「陳寿伝」の簡潔な流れからみると、長々と上表に触れずに、たとえば「記録として残すため、陳寿の家に行って『三国志』を書き写させた」という事実のみで済むはずだからです。


5、おわりに

以上、「魏志倭人伝」の作者 陳寿について『晋書』からご紹介しました。

「陳寿伝」のエピソードが、どこまでが“事実”なのかはわかりません。

ですが、上述のような記録が残る陳寿が、書きあらわした『三国志』巻30「魏書30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」(魏志倭人伝)の内容は、どこまで信用できる“歴史記録”といえるのでしょうか。

私見を述べることは避けますが、ご参考の一部とされて「邪馬台国」の所在地の比定をされてみられるのもアリかと存じます。










日向坂46 宮田愛萌(22)
2020.09.07
 
当記事は、「宝瓶宮占星学」サイトの「「日向坂46」への改名/独立」(リーディングサンプル&メモ)のつづきで、各メンバーの「ソーラー・チャート」の特徴をご紹介しています。

日向坂46にかぎらず、「ネイタル・ホロスコープ」(出生天球図)が、どんな特徴をもつのかというのは、そのまま、ほかの人にない、その人独自の「個性」や「運勢」を象わすことにつながります。

そのため、特徴となる星の配置を見抜くことは、「ホロスコープ・リーディング」のポイントの一つになっています。


さて、今回は、日向坂46では16人め、そしてかってにグルーピングしているここからご紹介する「アクセントキャラ・グループ」では1人めとなるのは、「宮田愛萌」(牡牛宮、22歳)です。

その「ソーラー・チャート」は、次のとおりです。




日向坂46のメンバーは、いずれも出生時間が不明なために、出生時の「太陽」をASC(Ascendant アセンダント=上昇点)の位置におく「ソーラー・チャート」でお届けしています。

上掲の「ソーラー・チャート」は、一目見ておわかりのとおり、必ず正反対の位置にくる「ドラゴン・ヘッド」&「ドラゴン・テール」をのぞけば、半球側に星が集中する“ボウル型”のホロスコープになっています。

ちょうど、約半分の180度/360度以内に、星たちが集中しています。

ただし、これまでご紹介してまいりました幾人かの「セレクション・グループ」の“ボウル型”の「ソーラー・チャート」と異なるのは、宮田愛萌(牡牛宮、22歳)の場合は、「ドラゴン・ヘッド」を交えて“バケット型”になっていることです。

半球に星が集中する“ボウル型”に加えて、反対側に“取っ手”がついたような星の配置の“バケット型”の「ソーラー・チャート」です。

乙女宮の「ドラゴン・ヘッド」が、その“取っ手”の位置になっています。


そして、宮田愛萌の「ホロスコープ」の特徴は、その「ドラゴン・ヘッド」を交えて次のとおりです。

宮田が午前6時以降の生まれの場合、牡牛宮27度~双子宮8度の「月」と、射手宮7度の「冥王星」の衝(オポジション=180度)に対して、乙女宮7度の「ドラゴン・ヘッド」と魚宮7度の「ドラゴン・テール」が大十字(グランド・クロス=90度×4)を形成していることです。

単なる大十字(90度×4)とは異なります。

そういった、大十字(90度×4)を内包した、キレイな“バケット型”をもつのですが、もしそうでなくても、「冥王星」を軸に「ドラゴン・ヘッド」と「ドラゴン・テール」を交えて、ジャストのT矩(Tスクエア=90・90・180)を形成する「ホロスコープ」です。


宝瓶宮占星学をご存じの方なら、すでにおわかりのとおり、大十字(90度×4)は「大凶」でもなく、T矩(90・90・180)もまた「凶」でもありません。

「宝瓶宮時代」が正式にはじまって以降、平成末期やミレニアム世代に生まれた人々は、とくにそういえます。

宮田の場合、「海王星」を上三分(アッパー・トライン=120度)とする「月」です。

個人また女性にとっては重要なそんな「月」が、当該大十字(90度×4)を形成するために、宮田の場合、ほかの星の配置も交えて、周囲の状況を直感的に察しながら、みんなを楽しませるためにも、なかば“しぜん”にとってしまう「ぶりっ子キャラ」を象わしています。

大十字(90度×4)を形成する「月」が、「海王星」を上三分(120度)とするだけではなく、午前6時以降の生まれの場合、双子宮の影響圏または双子宮に位置する「月」に、衝(180度)をとる「冥王星」が「水星」を上三分(120度)としているためでもあります。

さらには、後述いたしますように、「ドラゴン・ヘッド」もまた「太陽&火星」を上三分(120度)としています。

そのため、この大十字(90度×4)は、宮田愛萌の「個性」(キャラ)を特徴づける代表的なアスペクト・パターンになっています。

つまり、なかば“天然”ながらも、なかば“やってる”と宮田の「ぶりっ子キャラ」を象わす本質的な部分になっています。


「海王星」に共鳴する魚宮には、大十字(90度×4)の一角を形成する「ドラゴン・テール」があり、「金星&木星」の合(コンジャンクション=0度)があります。

その魚宮の共鳴星「海王星」は、双子宮もしくはその影響圏にある、同じく大十字(90度×4)のポイントとなる「月」を下三分(ロウアー・トライン=120度)としています。

同時に、「牡牛宮生まれ」(太陽)の宮田の“個性の核”を象わす「太陽」&「火星」の合(0度)も、また、大十字(90度×4)の一角を形成する「ドラゴン・ヘッド」を下三分(120度)とし、上述のように“バケット型”のホロスコープの“取っ手”部分になっていていることなどからもそういえます。

この大十字(90度×4)は、直接また間接をとわず、「太陽」「月」「水星」「金星」「火星」といったパーソナル・プラネットが関与して形成されているために、宮田愛萌の「ホロスコープ」を代表する特徴的な側面を象わすことになります。

くわえて、「冥王星」はもちろん、太陽の黄道と月の白道の2つの交点(ノード)の「ドラゴン・ヘッド&ドラゴン・テール」を交えた大十字(90度×4)になっているからです。

つまり、これらの星(占星点)によって構成される大十字(90度×4)は、もはや“運命的”なものでもあり、“職人的スキル”としても、周囲を楽しませるために、“しぜん”と演じざるをえない「ぶりっ子キャラ」になっていることを象わしています。


今月9月23日にリリースされる日向坂46のファースト・アルバム「ひなたざか」のリード曲になぞらえていえば、まさに「アザトカワイイ」といったところです。

すでに卒業した柿崎芽実(射手宮、18歳)と双璧をなした宮田愛萌のそんな「アザトカワイイ」ともいえる“ぶりっ子キャラ”から、秋元康はインスパイアされて日向坂46のこの新曲を作詞したといえます。

というか、もはや“天然”なのか“やってる”のかはともかく、“ぶりっ子キャラ”は、オードリーがMCをつとめる日向坂46の冠番組「日向坂で会いましょう」(テレビ東京、日曜25時5分~)を盛り上げる“名物バラエティー・スキル”の一つともなっています。











“逆説”の邪馬台国-1
2020.09.06
  
議論百出の「邪馬台国」なのはご存じのとおりです。

史実はともかく、個々人が“所在”をどこだと主張してもかまいません。

すると、まれに“トンデモ説”がでてきます。

ですが、“トンデモ説”すぎるのは、逆にありえないと多くの人がわかるのでいいのです。

むしろ、いちばん困るのは、ご本人が真剣に信じているのか、「ついに完全解明」とか、「最終結論」などと我知らずとも“うそ”ぶいてしまうことです。

それは、「当たらずとも遠からず」といった相応の“確証”があるからでしょうが、なかにはアクセス数稼ぎや出版社が売らんかなの“釣り”でもって、そう誇張することがあります。

それが困るのです。

「え? 魏志倭人伝(倭人条)って、そんなに整合性のある“歴史記録”でしたっけ?」

と思っちゃいます。


理数系ならともかく、「歴史書」は正確ではありません。

たとえば、“勝者”と“敗者”どちらの立場からみるかによっても、また“第三者”の目からなるべく客観的にみたとしても、“ウソ”とまではいいませんが、どこか一方的な主観になったり“間違い”が生じるのは事実です。

そんなことは、実は、だれでも身近に経験しているのです。

なのに、なぜか「魏志倭人伝」だと、正しい“歴史記録”だととらえてしまう人がいます。

もちろん、「南は東のことだ」とか「1月は1日の間違いだ」などど、曲解するのは論外です。

著者が意図するしないにかかわらず、当時の事情や状況などによって、情報不足や誤解もふくめ“誤まって”記述してしまうことは、“歴史記録”には避けられません。


身近な一例をあげましょう。

お隣の国の歴史認識などは“論外”ですが、正しい歴史を伝えようとする日本の「歴史教科書」がよい例です。

戦後の一時期ほどの左翼偏向の記述は、多少は少なくなったと思います。

ですが、一般的なところでも“聖徳太子”がどうのとか、“足利尊氏”の肖像が違うとか、“鎌倉幕府開幕”の年代が異なるとか、明らかになっていなかった“誤り”は今なお出てきます。

比較的“史実”の結論のみを記そうとする「教科書」でさえそうなのです。

“歴史記録”ってそんなものです。


今日のネット社会のように、玉石混交ながらも情報があふれているわけでもありません。

文字は一部の人しかもちいていませんし、残すとしても“絵”がせいぜいで、写真などの情報インフラが整っていない時代の記録です。

著作郎(著述家)だったとしても、記録されたり伝え聞いたごく一部の“情報”しか伝わらない時代の記録です。

まして、大陸サイドの目で残した「魏志倭人伝」なので、客観的な部分があったとしても、どこかにフィルターがかかります。

古代日本の、しかもごく一部地域の、わかる範囲でしかない情報を、“主観的”に記録しただけなのです。

決して、当時の日本各地の状況を把握して記録したのでもなければ、古代日本のそれ以前の変遷をふまえて記したものでもありません。

そんな「魏志倭人伝」の記述ゆえに、古い日本の原点を記したものでもありません。

実際、大陸の“記録”に残らないだけで、紀元前の“文明文化”のあとは、世界が驚くほど日本各地に残っているからです。

とくに、卑弥呼が共立されてのちの「女王国連合」(新・邪馬台国グループ)というのは、2世紀末に誕生した“新興国”にすぎません。

「“逆説”の邪馬台国」とタイトルをつけたのは、そういう意味からです。


また、『逆説の日本史』(初巻)においても、卑弥呼や邪馬台国の新たな解釈が付加された項がありますが、著者は作家らしく確たる証拠はないにもかかわらず、“持論”を展開されて史実かのように語っているのです。

著作は自由ですが、客観的かつ公平にみれば、やはり“思い込み”がみられることから、あえて「“逆説”の邪馬台国」というタイトルで、確実に史実に近い部分と、そうでない“思い込み”の部分、さらには“留保”すべき部分などを『逆説の日本史』に関係なくみていきたいと存じます。


もし、「魏志倭人伝」(倭人条)が100%正しい“歴史記録”なら、邪馬台国の位置はとっくに比定されているはずです。

今だにそれができていない以上、そういうレベルの“歴史記録”だということです。

なのに、状況証拠などを結びつけて、「ついに完全解明」だとか、「最終結論」などと断言されるから、“おかしく”感じますし、真に史実を解明しようとするときに“困る”のです。


それはともかく、“邪馬台国”をはじめとした「古代史」解明に、なぜ、“思い込み”や“事実誤認”が生じやすいのかを占星学からご紹介しておきます。


古史古伝に描かれる“超古代史”や邪馬台国のような“古代史”など、「現実」(現代)を超えた世界や時代への意識やご関心(ロマン)は、星でいえば「海王星」がもたらします。

ちなみに、「木星」の場合は、地域的には“海外”など、地上規模の意識や関心の広がりにとどまります。

一方、「天王星」となると、“宇宙”規模の意識や関心の広がりをもたらします。

それゆえ、「木星」と共鳴したかつての「双魚宮時代」は、海外に広く領土や産物を求めた“大航海時代”や“支配/被支配”の“植民地時代”が到来しました。

それが、「天王星」を共鳴星とする「宝瓶宮時代」の影響圏に入ると、ついには“飛行機”や“ロケット”などの飛行体が開発され、「宝瓶宮時代」が正式にはじまった今後は、“宇宙ステーション”や“各種衛星”をはじめ“宇宙時代”へと進んでいくわけです。


では、「海王星」はどうなのでしょうか。

上述いたしましたように、「海王星」による意識やご関心はそれらを超えます。

「現実」を超越してしまうのです。

人間の形而上的な“心理”や“心象”をふくめて、“時空”を超越した存在しえない“イメージ”や“フィクション”の世界へと誘っていきます。

それを、まだ「自覚」できているうちはいいのですが、海王星の影響は、自分でも気づかないことが多く、“これは事実だ”とまるで“現実”かのように思い込むはたらきが加わるのです。

そういった「海王星」の象意を、強く生まれ持っていたり、「海王星のディレクション」を受ける人生期にあるとき、“スピ系”などもそうですが“古代史”の世界に“関心”や見果てぬ“夢”(ロマン)をいだくことが起こります。


“良し悪し”とは関係がありません。

「海王星」自体が、現実を超えた“霊界”や“不思議系”など、不確かな世界に共鳴して、“イメージ”や“インスピレーション”をもたらすために、よくよくご注意しないと、“現実錯誤”や“事実誤認”、また“思い込み”をもたらすことになるのは事実です。

当然、不確かさの残る「古代史」や“シュメール文明”をはじめ「古史古伝」などによる“超古代文明”と共鳴(スパーク)して、まるまる信じてしまうことが起こります。

“イメージ”や“イスピレーション”が、「海王星」の象意によってさらにふくらむ結果、“これは事実に違いない”と、無意識のうちにまるで「現実」かのように我知らずとも信じ込みやすくなるのです。

それが、邪馬台国の所在などに関して、「最終結論」だとか「ついに完全解明」などと、断言してしまう言動にいたる理由です。

“悪気”はないのですが、「現実」が見えなくなるのです。

結果、史実の究明とは正反対に「海王星」らしく“混乱”や“混迷”また“欺瞞”を我知らずにもたらす結果をまねきます。

地道に史実を探究する人たちにとっては、いい迷惑なのです。


ただ、弁護しておきますと、ときに「海王星」の“妄想”や“フィクション”また“インスピレーション”が、史実へのヒントになって役立つことはあります。

そのためにも、「土星」の象意をもっておくことが必要です。

なぜなら、「土星」は、“誤魔化すことのできない現実”を象わすためです。

海王星とは正反対に、地に足をつけて、地道にコツコツと、忍耐強く、慎重に研究を一歩ずつ重ねていく働きをもたらします。

また、“疑心暗鬼”といえば失礼ですが、“用心深い”ので容易には“観念論”や“妄信”には流れません。

もっとも、それゆえ「土星」は、現世でなく“天上天国”や“信仰”に価値をおく「キリスト教」や、19世紀後半以降、現実に根差さないオカルト解釈に流れた「神秘占星術」(オカルト占星術)の流れをくむ現代西洋占星術などでは、“大凶星”とされてきました。

ですが、もはやそんな「双魚宮時代」は終わったのです。


新しい宝瓶宮時代は、星に「吉凶」はありません。

「海王星」は、海王星らしく、“夢”(ロマン)や“想像”(フィクション)を楽しめばいいでしょう。

「土星」は、“シビア”に、“誤魔化すことのできない現実”にそって、一歩ずつ史実の解明に近づいていけばいいのです。

問題は、そのバランスとTPOです。

お遊びや興味半分なら、「海王星」によってご関心をもたれてもいいのですが、「邪馬台国」をはじめ古代史の史実を解明していくには、やはりこれからの時代は「天王星」や「土星」の象意また作用が重要になります。


いずれにしましても、上述のようなことから「“逆説”の邪馬台国」を、随時お届けしてまいります。












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